「ノルドヴェイク(4)」(2026年02月04日) クボンクラパ町の中を通っている道路は東のプチェノガン通りを筆頭にして、東西方向の バトゥチェペル通り、その南を並行しているバトゥトゥリス通り、バトゥトゥリス通りと ジュアンダ通りを南北方向で結んでいるジュアンダ?通りくらいしかなく、あとは家並み の間を抜ける小路や袋小路が大量に作られている。小路の盛衰はさまざまにあったようだ が、大所の配置はオランダ時代からまったく変化しておらず、ただ通りの名称が変わった だけ。そして通り沿いの街のたたずまいも現代化して大きく様相を変えた。上述の大きい 道路沿いは昔、ほとんどが住民の住居で占められていたというのに、現在は店舗・レスト ランや食堂・ホテル・ショールーム・事務所などで埋め尽くされてしまっている。 ラフルズがノルドヴェイクとレイスヴェイクおよびその西側を含めたエリアをヨーロッパ 人地区に指定したという話を拡大解釈してはならない。ノルドヴェイク地区については、 ラフルズがプリブミや東洋人在留者を排斥したのはノルドヴェイクの通りに面した街並み だけであって、その裏側に当たる今のクボンクラパ町の中までヨーロッパ人専住地区にし たわけではないのだ。だからクボンクラパ町の中にはマジョリティを占めるブタウィ人や その他種族のプリブミ、アラブ人や華人、そして西洋人が混じり合って住んでいた。 ノルドヴェイクの道路は西端がモーレンフリートオースト(今のJl Hayam Wuruk)との角 地になっている。第29代VOC総督ファン デル パッラが1745年から1767年の 間にそこにカントリーハウスを建てたのがその地所の歴史の始まりだったようだ。住居と しての邸宅は1860年ごろまで続き、そのあとそこにHotel Ernstが開業した。 ホテルオーナーは慈母のような中年女性で、マザーエルンストと呼ばれたそうだ。189 0年にはHotel Wisseに名が変わり、1920年にモダンなビル様式に建て直されてHotel des Galeriesとして生まれ代わった。オテルデガルリは1960年代にHotel Melatiと名 を替えていたが、今はまた往時のオテルデガルリの名前に戻されている。 そこからジュアンダ通りを東に進むと、北に向かうジュアンダ?通りがある。オランダ時 代にその通りはDordrechtlaanという名前になっていた。さらに東へ進むと、事業競争監 視コミッション本部の向こうに植民地風の大型建物が道路に沿って70メートル近く伸び ている姿を見出す。ジワスラヤ保険会社本社社屋だ。 オランダ人建築家PAJモーイェンが保険会社Nederlandsch-Indiesche Levensverzekering en Lijfrente Maatschappij(通称Nillmij)のために1909年に建てた、建築面積8千 8百平米の建築物がそれだ。ニルメイは1859年に設立された。 その建物の東端に北に向かうジュアンダ?通りの入り口がある。この道はオランダ時代に Thiebaultwegと名付けられていた。その通りに住んでいたバタヴィアのセラブリティのひ とりAlfred Thiebaultの名前からその道路名が作られた。 1852年にバタヴィアに渡航して来たアルフレッド・ティボーは才能豊かな人間だった。 教師として暮らし始めたかれは植民地軍将校クラブであるコンコルディア社交場のマネー ジャーの仕事を得て並外れた才能と手腕を示したことから、そのワンランク上のハルモニ 社交場のマネージャーにスカウトされたのである。 かれはバタヴィアの著名な知識人として当時のヨーロッパ人社会のセラブリティのひとり になった。詩を書き、系図の専門家になり、また紋章学をも修めたかれは、ティボーヴェ フの奥にあるヤシ農園の地所を買い取って豊かな老後を送ったと言われている。 ティボーヴェフ入り口の東側角地には1872年ごろにHotel de L’Europeがあった。1 887年ごろまで事業が続けられていたようだが、その後の消息は判然としない。古い記 録の中に名前が出てこないホテルだから、バタヴィア中心部の一連の高級ホテルよりラン ク下だったのかもしれない。 今、サレンバラヤ通りとプラムカ通りの交差点北西角地にある社会省は共和国完全独立後 にそのオテルドゥルロプに入っていたという記事が見られる。社会省がいつからサレンバ の住所を占めるようになったのかはよくわからない。[ 続く ]