「スカルノのジャカルタ(15)」(2026年02月04日) 1960年から4年間ジャカルタ副市長を務めたヘン・ガントゥンも反対者のひとりだっ た。ヘンの諫言に対してスカルノは「お前もわたしのパンツを見せびらかしたいひとりか。」 と応じた話が人口に膾炙した。 その話から取り壊しの理由を推測した者がいて、スカルノはあの家で起こった嫌なことを 忘れたいために取り壊すのだという理論を建て、多分それはメンテン13番地の青年たち にレンガスデンクロッに誘拐され、独立宣言を強制された事件だろうと結論付けた。ワン マンリーダーのスカルノにとって、他人から強要されて自分が行動したことが許せないの だという心理分析なのだろう。 また別の者は、スタン シャッリルとの衝突が破局に至って、スカルノが1962年にシ ャッリルを逮捕させて裁判なしに投獄したできごとと結びつけた。シャッリルが住んだ家 とシャッリルが完成を宣したモニュメントは憎い坊主の着た袈裟だと言うのである。 しかしまた別の意見もあって、グドゥンポラが外の道路からよく見えるようにするために、 見かけのあまりよくないその家屋が人身御供にされたのだということを語る者もいた。 スカルノはあるときその話題が出された際にこんなことを述べたことがあったそうだ。 「あの家は長くもって100年、多分そんなにはもたないだろう。だから取り壊した。」 どうやらその邸宅はスカルノの審美センスにとって、永久保存するのに値しないものに見 えていたようだ。独立宣言記念モニュメントの役割をその建物に持たせることはたいした 意味がなく、記念碑の役割はサイトつまりその場所に努めさせようという考えだったので はないかというのがその意見のようだ。 スカルノが独立宣言記念碑を軽視していたわけでないことは、1960年8月13日の国 家建設評議会総会で高さ17メートルのモニュメント建設を提案したことが示している。 塔の頂上に稲妻の形をしたシンボルフィギュアを置いたデザインのモニュメントが建てら れ、その形に因んでTugu Petirと呼ばれた。その稲妻にはDi sinilah tempat Bung Karno memproklamirkan kemerdekaan Indonesia pada 17 Agustus 1945.という文が刻み込まれ ている。この稲妻の塔はスカルノが独立宣言文を読み上げた地点ピッタリの位置に建てら れている。 スカルノは息子たちにGunturやGuruhという名を授け、独立宣言のシンボルとして稲妻を 選択した。その符合は何を意味しているのだろうか? 1972年になってアリ・サディキンジャカルタ知事が1946年に建てられた独立宣言 記念碑の再建を提案し、スハルト大統領の同意を得て同じ場所に同じ碑が建てられた。1 972年8月17日にその完成式が行われ、モハマッ・ハッタが貴賓として参列した。 次いでスカルノが独立宣言文を読み上げハッタが少し後ろでそれを見守っている像が敷地 の中央部に建立され、1980年8月17日にスハルト大統領がオープンを宣した。 東プガンサアン通り56番地は今、Taman Proklamasiという名の公園になっていて、そこ には三つのモニュメントが建ち、プリンティスクムルデカアンビルが西の一番奥に巨大な 姿を横たえている。表の通りも名前が変更されて、今はJl Proklamasiという名称に変わ った。ディポヌゴロ通りの南まで続いていた東プガンサアン通りは南側の部分がプロクラ マシ通りという名前に変更されたのである。[ 続く ]