「ノルドヴェイク(5)」(2026年02月05日)

ティボーヴェフはノルドヴェイクの通りから4百メートルほど北を並行して東西に走って
いるBatoe Toelis(現在のJl Batu Tulis)までを一直線に結ぶ道路で、1950年代ま
でその通りに面して有名なパン屋Bogerienがあった。そのパン屋に関連する話として、昔
の巡回パン屋が叫ぶ商い声「Botiii...! Botiii...!」の由来譚がある。パンを指すRoti
やBroodという言葉を叫ばず、意味の分からない「ボティ」という言葉を巡回パン販売者
が叫んでいたのはどうしてか、という疑問にひとりの歴史家がこう答えた。

巡回パン販売者の中に「Tibo Tibo Tibo Tibo...」と繰り返し叫ぶ者がいた。かれはティ
ボーヴェフのパン屋の製品であることを客に印象付けようとしたのだ。ティボーを続けて
叫んでいたら、ボティと聞こえるようになった。ボジェリアンのパンはバタヴィア中に知
られた人気のあるパンだった。その店の名は1950年代までジャカルタ市民の間で知れ
渡っていた。

「ボティ」と叫ぶ巡回販売者の売れ行きが良ければ、他の巡回パン売りたちもその由来を
知らないまま同じように叫ぶようになる。こうして巡回パン売りの叫び声が「ボティ」に
なったということをこの立説者は主張していると考えられる。この通りには他にも有名な
店があった。クブンクラパモスクの近くにあったイタリアレストランChez Marioは若者の
集まる場所としてバタヴィア有数のヤングスポットのひとつだったそうだ。


ジュアンダ?通りの東側の区画に、ジュアンダ通りからバトゥトゥリス通りまでの広いエ
リアを占めてウルスラ会が運営しているサンタマリア学院がある。プレイグループから幼
稚園・小学校・中学校・職業高校までをカバーする一貫教育を行っているカトリック系の
女子教育機関だ。

VOC時代にその支配域内でカトリック教は禁止されていた。ポルトガル人の支配地であ
るアンボンを奪ったVOCは、それまでカトリックの町だったアンボンをプロテスタント
の町に変えた。同じことはマラカでも行われている。プロテスタントへの改宗を拒んだポ
ルトガル人やアンボン人が大勢、アンボンを去ってフローレス島に移住した。VOCがフ
ローレス島の支配と搾取開発にあまり熱心でなかったのは、その島がたいした経済性を持
っていないと判断されたためだと解説されている。

VOCと戦って捕虜になったポルトガル人は奴隷にされたが、カトリックからプロテスタ
ントに改宗すれば奴隷身分から解放されて自由人になれた。ポルトガル人コロニーとして
開かれたトゥグ地区には解放奴隷が送り込まれたので、最初からプロテスタント社会とし
てスタートしている。

ルイ・ボナパルトが1806年にオランダ国王になってから東インドでもカトリックが解
禁された。東インドでのカトリック宗教活動はオランダ国王としてのルイとヴァティカン
教皇庁が1807年5月8日に協定を交わしてから始まった。ヴァティカンが派遣したオ
ランダ人教区長が1808年にバタヴィアに到着し、ダンデルス総督は1810年にパサ
ルスネンのガンクナガにあった小さいプロテスタント教会をカトリック教区長に委ね、政
庁が費用を負担してその教会に塔を建てた。

オランダ東インド植民地2代目(VOC時代〜イギリス時代からは通算43代目)の総督
に就任したデュ ビュス・ドゥ ジジニー(在任1826〜1830年)は史上最初のカト
リック教徒東インド総督だった。かれはカトリックの威厳がバタヴィアに不足していると
感じたのだろう、ヴァーテルロープレインの北側ブロック南西角地にカテドラルを建設さ
せた。

その場所には最初植民地軍総司令官の官舎が建っていたが、1828年に地所がカトリッ
ク教団に売却され、1929年に教団がそこにカトリック教会を建てた。それがカテドラ
ルに公認されたのは1845年のことだった。そのカテドラルが現在の姿に改築されたの
は1901年だ。[ 続く ]