「スカルノのジャカルタ(16)」(2026年02月05日) タナアバン地区の南西に位置しているのがパルメラ地区で、昔はその南側にグロゴル地区 があり、クバヨラン地区はグロゴルの真南に続いていた。タナアバンからクバヨランまで は5〜6キロの距離がある。VOC時代にタナアバン地区の開発が進められてから、そこ での活動が周辺地区へ拡大して行ったことは想像にあまりある。 Palmerahという地名は赤色に塗られた境界標の杭を指しているという説が有力だ。その杭 が打たれた時代、パルメラはバタヴィアとバイテンゾルフの境界に位置しており、そして タナアバンからパルメラを通ってクバヨランに達する街道ができていた。 ずっと後の時代に東インド政庁はバタヴィアとジャワ島西端のアニエル港を結ぶ鉄道線路 の敷設を国有鉄道会社Staatsspoorwegenに命じ、SSはそのルートをタナアバン〜パルメラ 〜クバヨランの街道沿いに通した。そして1899年10月1日からその線路を通って列 車がランカスビトゥンまで走るようになった。ただしタナアバン〜パルメラ〜クバヨラン という街道はそこからチプタッを経てパルンからバイテンゾルフに達する道であり、ラン カスビトゥンには向かわない。ともあれ、バタヴィア城市からバイテンゾルフに向かうい くつかのルートの中ではその街道がもっとも西寄りのものだったように思われる。 ファン・イムホフ第27代総督がバイテンゾルフ宮殿を建設するよう命じたのは1744 年のことで、1745年に着工されて1750年に完成したと記録されている。その間に 総督は何度も工事の進捗状況を視察に訪れ、できたての寝室に泊まっただろうから、パル メラ〜クバヨランを通過する総督のために街道はそれなりの整備がなされていたと考えて よいように思われる。 バイテンゾルフ宮殿への行き帰りに使用するためのPos Pengumbenと呼ばれる休憩ポスト がパルメラに設けられていた。もちろん総督もそこを利用しただろう。プグンベンという 言葉はジャワ語のombe(飲む)を語幹にして場所を示すpengombenが転訛したものと考え られている。馬に水を飲ませる施設がポスプグンベンであり、乗客もそこで休憩を取った はずだ。 1792年に、地元民がgedung cubuhあるいはgedung tinggiと呼ぶ2階建ての邸宅がパ ルメラ地区の街道から8百メートルほど西側に建てられた。スラカルタ王宮内VOCレシ デン部の会計官だったAndries Hartsinckのヴィラだ。ゆったりした寝室が左側に3つ、 右側に2つあり、建物の右側に2階に上がるための木製階段が備えられていた。2階には 寝室がなく大広間がひとつあるだけで、正面に向かって扉が三つ設けられていた。建物の 裏には右側に馬小屋があり、左側には奴隷使用人の部屋が並んでいた。 トアン アンドリスはそれと別にパルメラ鉄道駅から遠くないブンタラブダヤ文化会館の あるエリアに豪華な住居を建てて住んだ。地元民がArya Jipangと呼んだその住居は19 96年に取り壊されている。 トアン アンドリスはパルメラ地区内の一区画であるスリピエリアからその北のジュラン バルにかけての広大な土地の地主だった。ジュランバルはタナアバンの北側に位置するタ ンボラ地区の西にある。[ 続く ]