「ノルドヴェイク(6)」(2026年02月06日) 一方、プロテスタント教会もバタヴィア城市内のオランダ教会が崩れたためにヴェルテフ レーデンに新設する必要があり、Koningsplein Oost(現在のJl Medan Merdeka Timur) にWillemskerkと名付けられた教会が1839年に完成した。その名称は新生オランダ王 国のヴィレム1世に因んで付けられたものだが、1948年にエマヌエル教会に改称され ている。 ジャワ島に5年間のイギリス時代を築いたイギリス人は、ロンドン宣教ソサエティがプラ パタン地区に土地を得て竹造りの教会を1819年に建てた。竹製教会は白アリに食われ たあげく火事で焼け落ち、1831年に恒久的な建物に建て替えられた。オランダ人はそ の教会をEngelsche Kerkと呼び、その前の道路をEngelsche Kerk Wegと名付けた。 インドネシアが完全独立した1950年に教会の名称がAll Saint's Anglican Churchに 変更された。その教会が面している道路名称も今はJl Arif Rahman Hakimという名前に変 わっている。 ノルドヴェイク29番地にサンタマリア学院の前身であるウルスラ会バタヴィア本部が発 足したのはバタヴィアでのカトリック教団のそんな歴史に深く関わっている。カトリック 教区長はオランダのウルスラ会に東インドでの宗教と女子教育の活動を行うよう求め、人 材を派遣するよう要請した。その活動拠点にするため教区長はノルドヴェイクの道路に面 した2階建ての建物を購入した。そこはフリーメーソンの著名人イェレミアス・シルの未 亡人エリザベッ・アドリアナ・ロゼボームの邸宅で、運河を隔ててレイスヴェイク側にあ る総督パレスの真向かいに位置していた。その購入に3万フルデンが支払われたと述べて いる記事が見られる。 オランダのウルスラ会は1855年9月に7人の修道女を送り出した。その一行はロッテ ルダムを船出して1856年2月にバタヴィアに到着した。ところが上陸を前にしてその 一行のひとりが船中で病没した。まだ27歳の若さだった。 残った6人はバタヴィア中心部に用意されている活動拠点を修道院と寄宿制の学校に仕立 て上げて、与えられた使命を果たすべく活動を開始した。1856年5月に最初の生徒3 人が入寮し、8月の開校初年度時には生徒数が40人になっていた。ところがその年の1 2月までに幼稚園児62人と小学生295人という大所帯に膨れ上がったのである。 6人の修道女はその過剰な負担を克服するべく身体を酷使して働いたものの、慣れない熱 帯の気候風土に加えてさまざまな熱帯病のリスクを抱えているバタヴィア生活がかの女た ちの健康を蝕み、活動を立ち上げた6人のチームはひとりまたひとりと倒れ、1863年 にはふたりを残すだけになっていた。没した仲間たちの最年少者は23歳だった。 オランダ本国のウルスラ会がバタヴィアに向けて送り出した第二陣は1858年4月にバ タヴィアに着いた。第二陣を運んだ船は6カ月間海上をさまよったために、多くのひとび とが遭難したものと思ったそうだ。 1858年末ごろから修道女たちは修道院から町に出て貧困者や孤児の生活指導を行うよ うになった。パサルバル地区にある建物を出先の拠点にし、同時にそこを学校と寮にして 使っていたものの、すぐに満員になったためにもっと広い場所を探し、Post Weg(今のJl Pos)にある大きい邸宅を購入して移った。そこは中央郵便局の西隣だった。現在そこは Santa Ursula小学校になっている。修道女たちはノルドヴェイクの本部を大修道院Groote Klooster、ポスヴェフの分所を小修道院Kleine Kloosterと呼んで区別した。その大小と いう形容は建物の規模でなくて組織内での位置付けを意味していた。 というのも、ノルドヴェイク29番地の本部が最初から現在の4百メートルほどの長さだ ったわけではないからだ。1874年のバタヴィア地図を見ると、ウルスラ会修道院の地 所はバトゥトゥリス通りの南部に広がっているカンプンクボンクラパの南縁までしか奥行 きがないように見える。1899年の地図までカンプンがはっきり描かれており、20世 紀になってからカンプンが消えて地所が明瞭に区分されているので、ノルドヴェイクのバ タヴィアウルスラ会本部が地所を広げたのはそのころではないかと思われる。 バタヴィアのウルスラ会はその後もスラバヤ・バイテンゾルフ・バンドゥンなど各地に精 力的に活動を広げて行った。現在のサンタマリア学院はバトゥトゥリス通り30番地を住 所にしており、ジュアンダ通り29番地の建物は同学院の博物館になっている。[ 続く ]