「スカルノのジャカルタ(17)」(2026年02月06日) グドゥンティンギの向い側にある道路の中にJl Kemandoranという名称の通りがあって、 トアン アンドリスや華人地主たちのために働くマンドルが多数そこに住んだようだ。2 0世紀初めごろまで、アンドリスのふたつの豪邸の周囲は華人事業主の住居や家内工業を 営む民衆の住居が広がっていた。Kwa Ming中華学校が作られ、その学校はいま北パルメラ 第7小学校になっている。昔、Gang Madatという名前だった北パルメラ?通りはアヘン窟 がたくさん店開きしていた。 民衆が行った家内工業の中に灯油ランプのガラスカバー、ケチャップマニス、そしてバテ ィッ布作りがあった。Batik Palmerahという呼び名でバティッブタウィの最盛期を彩った パルメラのバティッ作りはアンドリスの家が源泉だったと言われている。なにしろアンド リスはバティッの本場であるスラカルタに駐在していたのだから。 バティッブタウィの特徴は鮮やかな色使いに加えてpucuk rebung, belah ketupat, kain panjang pagi-sore, Jawa Hokokai, buket bungaの5種類のモチーフを基本にしている。 グドゥンティンギからあまり離れていない西パルメラ通り・ラワブロン通り・クバヨラン ラマ通り(今のクバヨランラマ通りはもっと南になっている)の三叉路にはブタウィ人の buaya maen pukulアリーナがあって、ブタウィ人ブアヤたちがその三叉路の一角に集まっ てマエンプクルの腕試しを行っていた。 マエンプクルとは格闘技を意味していて、要するにブタウィ流プンチャッシラッを指して いる。その世界を自分の池にして腕自慢をしたがる人間をブタウィ社会はブアヤと呼んだ。 ブアヤクロンチョンという言葉で使われるブアヤと同じ語法だ。社会の上流層あるいはV OC高官、華人事業家や富裕階層のひとびとは自分や家族の身の安全と財産の保全のため にボディガードを必要としたから、シラッに秀でたブアヤには大きい需要があった。 ブアヤたちがアリーナで行う腕試しは需要家たちにとって、買い物の品定めをする場でも あった。ブタウィのブアヤたちがチェンテンに雇われる伝統がブタウィ文化の中の婚礼の しきたりにおけるロティブアヤやパランピントゥを生み出したと言われている。 地位のある人間や金持ちが用心棒として召し抱える豪の者は昔centengと呼ばれていた。 チェンテンとは親丁の福建語発音チェンティンが訛ったものだ。現代中国語百科辞典は親 丁の語義のひとつとして「古代の高位な一族に仕えて家族のように信頼された使用人」と 記している。親代々その一家に仕えて一族の一員のように遇されるようになった使用人を 指しているのだろう。その中にその一家の身辺警護を役目にする者もあったはずだ。 その種の使用人は武芸を鍛え、ご主人様の命令一下、ご主人様の敵を撲滅する働きをした。 インドネシア人は華人のそんな習慣を目にして、チェンテンとはそういう役目を担うため に雇われる人間だと解釈した。だからチェンテンという言葉は暴力の臭いを強く帯びてお り、いつしかその種の臭いを発散させている人間もチェンテンと呼ばれるようになったと 思われる。ちなみに、ブタウィ語ではその種の人間がtukang pukulと呼ばれている。 腕の立つチェンテンはすぐに雇い主に召し抱えられ、その中の能力の優れた者はチェンテ ン頭になってマンドルと呼ばれるようになった。雇い主が農園を持っていれば農園作業の 監督や保安、雇い主が地主や商人であれば地代家賃や貸金の取り立て、そして雇い主の御 殿の警備などがチェンテンの日常業務になった。[ 続く ]