「ノルドヴェイク(7)」(2026年02月07日) ジュアンダ?通りの入り口からまた東に3百メートル進むと、トヨタのショールームの東 側に北に向かう道路の入り口がある。そこがプチェノガン通りだ。今のJl Pecenonganは オランダ時代にGang Petjenonganという名前だった。 プチェノガン通り北端のサワブサール通りとの交差点を越えて北上するとDrossaersweg (今のJl Taman Sari Raya)に入る。その一帯はAsem Reges地区と昔は呼ばれていたが、 今アサムレゲスという地名を遺しているのはPasar Asem Regesくらいなもので、たいてい がタマンサリという地名に置き換えられている。ドロサースヴェフはインドネシア独立後 に一旦Jl Asem Regesになったというのに、結局タマンサリ通りに落ち着いたわけだ。 プチェノガンからアサムレゲスにかけてのエリアはインドネシア独立前から自転車販売セ ンターになり、いまだに昔の名を保っているアサムレゲス市場は自転車のアクセサリーや 部品が何でも手に入る市場として名が知られていた。今ではオートバイ・自動車の部品や アクセサリーあるいは発電機などに扱い商品のメインがシフトしているとはいえ、かつて の伝統が形を変えながら生きながらえている印象が濃い。 その昔、プチェノガン〜アサムレゲス界隈で売られていた自転車はヨーロッパ製のものば かりであり、アジアの製品などひとつも混じっていなかった。ヨーロッパから輸入された Fongers, Gazelle, Batavus, Sparta, Raleigh, Simplex, Burgers, Humber, Phillips, Magneet, Goricke & Fahrradなどのブランドが東インドの市場を埋めていたのだ。 自転車からオートバイへの転換が始まったころ、自転車の販売センターでもオートバイが 扱われるようになり、オートバイを購入する消費者が増えてくればおのずと販売センター の扱い商品も自転車からオートバイにシフトしていった。1950年代に市場で脚光を浴 びていたのは次のようなブランドだ。Royal Enfield, BSA, Triumph, Norton. Harley- Davidson, BMW, Moto Guzzi, Vespa (Piaggio), Jawa, Ducati, Honda。そして1960 年代に入ってからSuzuki, Yamahaの市場参入、イタリアからLambrettaの進出などが起こ った。 消費者の上級層が二輪から四輪にシフトし始めると、そのエリアに四輪自動車の販売店が 増加した。今プチェノガン通りやバトゥトゥリス通りに四輪車や二輪車のディ―ラーやシ ョールームが目立つのは、その地区がそんな歴史を引きずっているためだ。 そのトヨタAuto2000のショールームの場所に1957年まで印刷業と書店のVan Dorpが店 を張っていた。当時ジャカルタで最大且つもっとも充実した書店という評判を取ったファ ン ドルプは、オランダ語・ムラユ語・ジャワ語の書籍出版事業を行い、販売店では書籍 ・文房具・楽器なども販売されていた。 書店業界でバタヴィアの市場を競い合ったコンペティタ−にG Kolff & Coがある。バタヴ ィア最古の書店コルフはファン ドルプと同じように印刷と出版そして書籍販売を事業に し、プチェノガン通りに店を開いた。と言っても場所はファン ドルプ店からだいぶ離れ ていて、プチェノガン通り北部のJl Ceylonとの角地にその店があった。現在その場所に はRedTop hotel & Convention Centerがある。 セイロン通りはオランダ時代にGang Ceylonという名前になっていた。一時期オランダの 植民地になっていたセイロン(今のスリランカ)から来たひとびとがその通りに住んだの でそう名付けられたという解説が見られる。1950年代から60年代にかけて、セイロ ン通りにBangka Biliton Sport Associationの本部があった。サッカークラブPersijaの 第一軍がそれだったそうだ。[ 続く ]