「スカルノのジャカルタ(18)」(2026年02月07日) ブタウィの英雄のひとりSi Pitungはパルメラのブアヤアレーナで名前を売り出した男だ った。後にピトゥンという綽名で呼ばれるようになったサリフンはラワブロンのスカブミ イリルの生まれで、1892年6月26日から10月19日までブタウィのロビンフッド になって名をあげた。強欲富裕者の家に忍び込み、盗賊働きで得た金と財物を貧民に分け 与えたのである。しかしついにはバタヴィア警察の副署長だったAdolf Wilhelm Verbond Hinneが指揮する一隊にタナアバン墓地で包囲され、銃撃戦のあげく銃弾を受けてその生 涯を終えた。ヒンネはその手柄によってバタヴィア警察署長に栄進し、Schoutと呼ばれる ようになった。ピトゥン事件を解決した時のヒンネはまだスホウトになっていない。 ピトゥンはトアン アンドリス邸に囚われたことがあるという話があり、その館が警察機 能を持たされていたことが推測される。というのも、日本軍政期にその館が警察署として 使われ、館の右横に牢獄が作られたのである。インドネシア共和国独立後その館は警察署 になった。 ブタウィ流プンチャッシラッの一流派であるCingkrikもパルメラのブアヤアレーナで誕生 した。創設者のキ マインは最初、バンテンへ赴いてバンテン流シラッを学んだ。バタヴ ィアに戻ってからパルメラのブアヤアレーナで腕を磨いていたころ、かれはいつも杖を持 ち歩いていた。あるときその杖をニ サエレの飼っているサルがひったくったのだ。ブア ヤとサルの間で杖の奪い合いが起こった。キ マインはそのサルから学ぶところがあり、 しばしばサルを相手に遊んで自分の術を向上させた。こうしてマエンプクルチンクラッは 1920年代に完成したのだった。 今もジャカルタでナンバーワン花市場の英名を誇っているラワブロン市場は19世紀末ま でチェンテンやマンドルたちが集まって楽しむ娯楽広場だった。ガンバンクロモンが演奏 され、チョケッが舞い唄い、賭博が行われ、売春も言うに及ばなかった。賭博はサイコロ あるいは闘鶏だったそうだ。 インドネシア共和国になってパルメラ地区警察が設けられたとき、グドゥンティンギに本 部が置かれて140人の署員が詰めた。所轄領域はトアン アンドリスの私有地までカバ ーするものになっていたそうだ。 1974年1月15日のマラリ事件勃発の際には2階大広間に国家警察機動旅団の分所が 置かれた。その大広間は1989年まで、会議や集会などパルメラ地区警察のさまざまな 催しの会場に使われた。1967年にその敷地に大部屋10室を持つ6棟のバラックが建 てられ、署員2百名の寮になった。グドゥンティンギは今、しばしばパルメラ地区警察寮 という名前で呼ばれている。 クバヨランという地名がはじめて記録文書の中に登場したのは1824年に作られた地形 スケッチ画だった。Kampoeng Jatieの右下にKampoeng Kuboejoranという地名が記されて いて、クルクッ川とグロゴル川にはさまれた地区であると説明されている。しかもその地 形図の中にGandaria, Pela, Petogogan, Tanah Kusirなどの地名をも見出すことができる から現在のクバヨランと同一視して間違いあるまい。 そのあと、1854年より前に作られた地形図にはHet Land Pabayoran Wastunagaraとい う地名が登場し、グロゴル川寄りの位置に記されている。1914年の地図にその地名は 現在と同じKebajoranという言葉で記されている。 1905年にクバヨラン地区はメステルコルネリスの下部行政区画であるdistrikという ステータスに置かれた。1936年までメステルコルネリスはバタヴィア市の中に含まれ ておらず、バタヴィアとは別の行政区域だったから、そのせいでクバヨランはバタヴィア の外部エリアと誰もが認識していた。 ディストリクはブパティが治めるカプバテン(県)の下で、副ウェダナを首長にするクチ ャマタン(郡)の上だ。ディストリクの首長はウェダナだった。クチャマタンは別名オン デルディストリクとも呼ばれた。クバヨランディストリク役所は現在、北クバヨランラマ 町役場として使われている。 共和国完全独立後もしばらくはその体制が継続されて、1950年代初期のクバヨランと チプタッは共にウェダナを首長に戴くジャティヌガラ県の一郡になっていた。[ 続く ]