「ノルドヴェイク(9)」(2026年02月09日)

怪奇現象を信じないトアンEの友人たちもやってきて、嘘話の正体を暴いてやると意気揚
々泊まり込んでみたものの、暴かれたものなど何一つなかった。こうしてトアンEの屋敷
表には毎夜大勢の見物人が集まって怪奇現象に興じるようになった。トアンEの一家にと
って世間の見世物になっている状態に嫌気がさすのも当然だ。インドネシアにたくさんい
るorang pintarと呼ばれる霊媒が雇われた。

オランピンタルが何を行ったのかはスマトラ新聞に書かれていなかったが、ともかくゴー
ストバスターの仕掛けも呪文もまったく効果を表さず、怪奇現象は衰える気配もなくまだ
まだ続いた。

夜ごとの怪奇ショーの観客は増加の一途をたどり、ガンプチェノガンが交通渋滞で通り抜
けできなくなったために警官隊が出動して野次馬をさばくようになった。見物人はトアン
Eの屋敷の庭にまで入り込んでいたので、警察署長が他人の家の庭に勝手に入っている者
たちに礼節をわきまえるよう説諭し、8人の警官をその周辺一帯に配置して交通と秩序の
整理に当たらせた。

世間の無責任な連中が憶測を交えた物語をでっちあげるのは時空を超えた人間の性だろう。
トアンEの友人だったトアンCが奇怪現象の始まるしばらく前に死去したことを知った一
部の者が怨恨話を仕立て上げた。トアンEの屋敷の奇怪なできごとはトアンCの恨みつら
みが起こしているのだ。スマトラ新聞8月26日の記事にそんな内容が報道された。トア
ンEは世間が許せなくなった。

夜になっていつものように集まって来た見物人にトアンEは憤りを向けて襲いかかったの
で、慌てた家族がすぐにトアンEを屋内に引き戻した。その知らせを聞いた警察署長は即
座に対応措置を執った。ガンプチェノガンの通りを閉鎖して、夜は乗り物が入って来られ
ないようにしたのである。怪奇現象がどうなったのかについてその後の消息は新聞に一言
も書かれていない。


プチェノガン通りの西側には小さい路地がたくさんあった。商店やビルになって小路がな
くなったものもあり、今残っているのはJl Batutulis IからXXまでの名前に変わっている
が、昔は個性的な名称が付けられていた。たとえばBatutulis Iは昔、Gang Panjangとい
う名称だった。それらの小路の集まっている狭い住宅地区にはブタウィ人やアラブ人プラ
ナカンがたくさん住んでムスリム社会の雰囲気を醸し出し、ファナティックムスリムであ
るブタウィ人の本拠地という様相を呈していた。

1940年から50年までArabian Press Boardを運営したM Asad Shahabがガンパンジャ
ンに住んでいた。APBがインドネシアの独立宣言のニュースをアラブ世界に流したおかげ
でエジプトがインドネシアを国家承認した第一号になった。ガンパンジャンにはボクシン
グジムがあり、1950〜60年代にボビー・ニョーやジャッキー・ニョーらのスターを
生んだ。

Jl Batutulis ?はGang Aboe Ketjil、Jl Batutulis V?はGang Damiri、Jl Batutulis 
V?はGang Djain。Jl Batutulis XはGang Aboeでそこには1985〜90年のウラマ評議
会ジャカルタ支部長を務めたKHM Syafi'i Alkhadzamiが住んでいた。またルアルバタンモ
スク建設者のひ孫であるHabib Husein Alaydrusの家があり、アライドゥルス宅の向いに
もモスクがあった。Jl Batutulis X?はオランダ時代にGang LebarとGang Klappaに別れ
ていた。

またGang Bongkokはブタウィ人の多い袋小路で、住民はたいてい洗濯仕事を家業にしてい
た。なにしろ、百メートルもない距離に運河があるのだ。しかしこの袋小路は歴史の中に
消えてしまったようだ。[ 続く ]