「ノルドヴェイク(10)」(2026年02月10日) 今ではBatutulisの本通りも個人の住宅がほぼなくなって、商業地区になっている。そこ はファウジ・ボウォ元都知事が子供時代を過ごした土地だ。ナフダトゥルウラマの幹部だ った祖父のH Abdul Manafとかれはそこで暮らした。その家の隣がSMR Shahabの家。シャ ハブはサワブサールのアルハンブラ映画館の経営者でエジプト映画の輸入業もしていた。 インド映画の人気が高まるようになるまで、アルハンブラ映画館はエジプト映画専門だっ た。映画館の表にあるPasar Ciplakは当時のアーティストたちの溜まり場になっていた。 バトゥトゥリス通りにも小路があった。そのひとつがGang Bedengだ。ベデンという名称 はそこに住んだオランダ人製氷事業家Buddunghに由来しており、まるでプリブミの耳と口 がいかに大きく訛っていたかを示す見本のようだ。ガンベデンには著名なアラブ人フィキ 学者Habib Abdullah Shami Alatasが住んでおり、バタヴィアのウラマたちが教えを請い に訪れていた。 今、ジュアンダ通りからプチェノガン通りに入って行く入り口には大型LEDディスプレイ を掲げたガプラが差し渡されており、ガプラにはWELCOME WISATA KULINER PECENONGANと 記されている。プチェノガン通りはグルメツアーエリアになっているのだ。 プチェノガン通りのシーフードカキリマ屋台は1970年代以来ジャカルタ名物になって いた。夕方5時に閉店してシャッターを下ろした店舗の表に料理屋台がやってきて、長テ ーブルと椅子を並べ、上部にはビニールシートで屋根を張りテント布で壁を作って、にわ か仕立ての食堂が作られる。布の壁にSeafood 45などという屋号を書いて、その場所の番 地名を数字で示して店名にした所が多い。中にはラッキー数字を使う者もあったようだ。 こうして45, 46, 47, 48, 65, 99などの数字を持つテント食堂が並んだ。 その一画でエスクラパやさまざまなジュース類を作り売りしている店主は、祖父がアリ・ サディキン都知事時代(1966〜1977年)にこの場所で開業し、それ以後この仕事 がわが家代々の家業になっていると語った。プチェノガンのカキリマテント食堂の多くは 先祖代々のビジネスを行っているらしい。 2003年の中央ジャカルタ市庁の記録では、プチェノガンのカキリマシーフード屋台店 は32軒あった。マルタバッなどの非シーフード屋台や飲み物はその数に入っていない。 飲み物売りは一晩に40〜50万ルピアの利益を上げており、シーフード屋台なら一晩の 利益は70〜100万ルピア超というレベルになっていたようだ。 2003年ごろにプチェノガンのストリートフードを食べに来るひとびとはたいていグル ープでそこを訪れていた。祖父母から孫まで一家十数人がやってきたり、友人や仲間を誘 い合わせて7〜8人がやって来るという雰囲気が一般的だった。わたしの一家も小学生の 子供を含めた4人連れで1990年代に何度か食べに行ったことがある。 面白いことに、プチェノガンのストリートフードはストリートフードの一般的特徴である ミドル〜ロワー所得層向けという色で塗られておらず、たくさんのアッパー階層がそこを 利用していた。その事実は道路脇に駐車してあるアウディ・ジャガー・BMWなどの車種 が雄弁に物語っている。そんな中に混じってオープンスポーツタイプのスーパーカーが置 かれているのを目にしたこともある。 エクスパトリエートから外国人ツーリストまでもがプチェノガンのストリートフードを食 べに来た。イタリア・インド・米国・日本などの外国人もしばしばやってくるという話が 語られていた。[ 続く ]