「スカルノのジャカルタ(20)」(2026年02月09日) 北ガンダリア地区に1930年、ジャカルタ最初の無線通信トランスミッターが設置され たという話が語られている一方で、通信塔はインドネシア共和国の国有ラジオ局RRIが 建てたという話もあり、RRIが建てたものなら1950年以降になると思われる。 Jalan Radio Dalam Raya Nomor 25, Gandaria Utara, Kebayoran Baruにある通信塔がい つから立っていたのかを知っている人間がもう地元におらず、社会記憶から脱落してしま ったようだ。2017年のコンパス紙記事には62歳の地元民が語った言葉が次のように 記されていた。 「わたしの生まれる前からラディオダラム通りはラディオ通りと呼ばれており、それはラ ジオ送信鉄塔があったことに由来していると思われる。ラディオ通りにダラムという言葉 が付けられたのは多分ラディオ通りが幹線道路から中に入った場所になっていたためでは ないだろうか。」 RRIがラディオダラム通り地区に事務所や従業員社宅などを建設したのでラジオ関係者 の拠点地域のようになったとはいえ、RRIが誕生する前のオランダ時代にはそこに東イ ンド政庁の国有会社Staatsbedrijf der Posterijen, Telegrafie en Telefonie郵便電信 電話会社が事業所を設けていた。PTTと略称されたこの会社は、1875年に行政府内 に作られた郵便電信局が電話事業部門と合体して1915年に発足したものだ。だからそ の通信塔は最初、国有会社PTTが建てたものと思われる。その施設はマラバル山に設け られたトランスミッターを補強する役割を担ったと述べている解説も見られる。 衛星都市クバヨランバルの建設が始まる前、ラディオダラムエリアにはGandaria Udikと いう村があった。通信塔の維持管理を行う職員を置くのであれば、人間の集落の存在は不 可欠の条件になるだろう。PTTがガンダリアウディッ村に建てた平屋建て事務所はRR I公共放送機関内部監視ユニット建物の裏にいまだに遺されている。たいそう分厚い壁が 印象的とのことだ。村民はたいていがカンクンや他の野菜類の栽培を主活動にしていた。 RRIが誕生してから既存の通信塔がラジオ放送のために使われるようになったそうで、 通信塔はそれ以前の無線通信からラジオ送信に主機能が変化したと言えるだろう。ラディ オダラム通りの名称がRRIがらみで付けられたのであれば20世紀前半の道路名は違う 名称になっていたはずだが、それ以前からラディオ通りと呼ばれていたのであれば、そこ に使われたラディオという言葉は無線通信一般を意味するものだったはずで、ラジオ放送 という言葉のラジオとは別ではないかと思われる。 オランダ時代のPTTの機能は共和国政府が1965年にPT Pos IndonesiaとPT Telkom Indonesiaのふたつの国有事業体に分割した。 RRIはラジオ送信塔を最終的に三つそこに設けた。高さはあまり高くないものだったそ うだ。1960年代のガンダリアウディッ村は人里離れた田舎村で、水の深い湿地帯とゴ ム農園に囲まれ、盛り土の上に鉄塔が建てられて通信ケーブルがアスファルト道路を横切 っていたためにその場所では自動車の通行が禁止されたものの、ベチャは通ることが許さ れていたそうだ。 それでもガンダリアウディッ村にはRRIの他に住宅地区を設ける役所があり、海軍が 4.9Haの土地に1952年から住宅地区を開き始め、また商業省もそれに倣った。 1969年にアリ・サディキン都知事がジャカルタの道路改良工事を開始してから、クバ ヨランバルの奥地であるラディオダラム地区にも都市化の波が押し寄せてきた。ラディオ ダラム通り南端から目と鼻の先にあるPondok Indah地区で高級住宅地開発プロジェクト工 事の着手されたのが1970年代であり、地区北端にポンドッインダモール(PIM)が19 91年にオープンし、ラディオダラム通り南端を西に向かえばPIMの駐車場に楽々と入 ることができた。[ 続く ]