「スカルノのジャカルタ(21)」(2026年02月10日) ラディオダラム通りの道路状況が改善された結果、表通り沿いにはデラックス家具・台所 用品・薬局・自動車用品などの専門店あるいはレストランや食堂が並び、沿線の地価は1 979年の平米90万ルピアレベルから2017年には5千万ルピアにまで上昇を続けた。 しかし表通りのそんな華やかさとは別に、通り裏の住宅地区住民は昔ながらの暮らしを送 っている家庭が大半だったそうだ。かれらはミアヤムの屋台を引いて巡回販売し、ショッ ピングセンターの駐車場で駐車番になり、あるいは小規模な販売事業を行う生活をいまだ に続けている。表通りの繁栄は裏通りにたいした恵みをもたらしていない。 ちなみにオランダ東インドのラジオ放送は民間企業のBataviase Radio Verenigingによっ て1925年6月16日にスタートした。放送局はハルモニ地区に設けられたようだ。そ の後東インドの各地に続々と民営のラジオ放送局が誕生した。1934年に放送を開始し たジャカルタ本拠の民営ラジオ会社Nederlandsch-Indische Radio Omroep Maatschappij 通称NIROMがそのうちに東インドのラジオ放送業界のジャイアントの地位にのし上がり、 最終的に西コニングスプレインの地所に巨大な放送局を構えるようになった。 日本軍の占領によってNIROM放送局が唯一のラジオ局(Jawa Radio Hoso Kyoku)として軍 政の監督下に置かれ、インドネシア共和国独立後はRadio Republik Indonesiaがそこに設 けられた。国有ラジオ局RRIが西メダンムルデカ通りに大きな放送局を構えているのは そんな歴史がもたらしたものだ。 ラディオダラム通り南端に東から突き当たって来るのがハジナウィ通りだ。東側の幹線で あるファッマワティ通りとラディオダラム通り南端を結んでいるのがこのハジナウィ通り であり、かつてパサルミングに住んでいたわたしはPIMやラディオダラムへ行く際にク マンのピザハット向いの墓地北側の道路に折れてから西方にあるハジナウィ通り目指して ひたすら走ったものだった。 ハジ ナウィという人物は1877年にジャカルタで生まれ、1934年にガンダリア地 区で没したプリブミの偉人であり、この人物が道路にその名前を遺したのは、かれがその 地区の大地主で比べ物のない富裕者であり、オランダ行政機構も一目置く社会的名士だっ たためであるというのが地元の人物評になっている。 ハジナウィ通りという名称はご本人がファッマワティ地区の自宅からJami Nurul Hudaモ スクへ金曜日の礼拝のために毎週馬車で通った道につけられたそうだ。1963年には既 にその名称が確定されており、それ以前のいつごろからその名称で呼ばれていたのかはよ くわからない。ヌルルフダモスクに建てられているH.NAWI bin TA'MINという文字の彫り 込まれた黒い大理石の墓標がハジ ナウィの墓を示している。 ハジ ナウィは北ガンダリア・南ガンダリア・ファッマワティ地区のほとんどの地所の地 主だった。4代前の先祖からBek Jahranの地位がハジ ナウィに相伝されてきた。ベッと いう言葉はオランダ語wijkmeesterからの転訛だそうで、地区の首長を意味している。ジ ャッラン地区あるいはジャッラン村の長を代々務めていたようだ。 初代のベッジャッランはチルボンから移住してきた人物だった。そのころまだ森林原野の ままだったガンダリア〜チプテ〜ポンドッピナンの一帯を切り開いたことで広いエリアの 土地の権利を獲得し、大地主になったと解説されている。土地は代々の子孫に分け与えら れてきたので、分割されまたその一部が売却されたりして、一族ひとりひとりの所有地は 小さくなっていったことだろう。それでも4代後のハジ ナウィが広大な土地の地主だっ たのだから、初代ベッジャッランの土地がどれほど広かったかは想像するだけで気が遠く なりそうだ。ハジ ナウィは地主として自分の所有地を白馬に乗ってよく視察に回ってい たという話が地元民の間に語り伝えられている。 金の工面に困っている貧困地元民がいれば、かれは惜し気もなく必要とされている金額を 与えたが、子供を結婚させるための挙式費用の寄付を求めに来た地元民の頼みは容赦なく 断ったそうだ。親に見栄を張らせるために金を与える気はないというのがかれの信条だっ たようだ。[ 続く ]