「スカルノのジャカルタ(22)」(2026年02月11日) 地元民に奉られているハジ ナウィの威厳を畏れてオランダ統治行政もガンダリア地区の 土地を召し上げることをしなかったという話も地元民の間で語り伝えられている。植民地 支配者の身勝手な無理強いはガンダリア地区に限って見られなかったというのが地元自慢 のひとつになっているようだ。 敬愛されたハジ ナウィの子孫もまだガンダリア地区にたくさん住んでいる。その中には ラディオダラム地区にプサントレンを建てた者もいる。かれらは特定の日に一族が集まっ てヌルルフダモスクに作られたハジ ナウィの墓に詣でたり、イドゥルフィトリやイドゥ ルアドハの日には親睦交歓会を開いているそうだ。 東インド政庁は1938年ごろ、クマヨラン空港より大型の国際空港を設ける計画を立て て、クバヨラン地区で730Haの面積を占める過疎地のOnderdistrict Kebayoran Ilirを 予定地に指定した。クバヨランイリルには1950年ごろまでPetunduanやHutan Pitikな どといった集落が散在していただけで、住民人口はわずか4千9百人しかおらず、住民の 多くは果樹栽培や水田耕作あるいは放牧などを行い、果実販売が金銭収入のメインになっ ていた。Grogol Udik、 Pela Petogongan、 Gandaria Noordなどのクバヨラン〜チプタッ 街道寄りにできた部落はクバヨランイリルに含まれていた。 その国際空港建設計画書ファイルは第二次大戦の勃発で閉じられたままになり、その後の 日本軍の占領とインドネシアの独立闘争の結果、日の目を見る機会も失われてしまった。 1948年に住民人口10万人を収容する730Haの衛星都市をクバヨランイリルに設け る案がNICA政庁住宅協議会で提起され、かつて計画された空港建設よりも緊急度の高 いジャカルタの衛星都市建設構想が優先されて、予定地は衛星都市のために流用されるこ とになったのである。その衛星都市にはクバヨランバルの名称が与えられた。 クバヨランバル建設プロジェクトは東インドの土木工事コントラクターとして設立された 財団法人「復興のための中央基金」Centrale Stichting Wederopbouw (CSW)に発注され、 CSWはクバヨランバルの中心部に位置するBlok Mの北西で東西方向と南北方向のメインス トリートが交差するJl Kyai Maja?TrunojoyoとJl Panglima Polim?Sisingamangarajaの交 差点にプロジェクトセンタービルを建てた。今、トランスジャカルタバスの停留所にCSW という名称が使われている。 クバヨランバルの都市計画は中央計画局の技師だったモハンマッ・スシロ工学士がデザイ ンした。スシロはトマス・カーステンの助手をしていた経歴を持っている。この衛星都市 の構想はメンテンのような公園都市を目指していたもののメンテンとは異なって、宗教施 設・商店街・スポーツ施設などの完備されたインドネシアのミドルクラス民衆のための居 住地区が意図されていた。 クバヨランバルはAからSまでのブロックで構成され、庶民住宅ブロック、公務員住宅ブ ロック、ヴィラ邸宅ブロック、軽工業ブロック、オフィスブロック、公園緑地ブロック、 墓地ブロック等々の諸機能が各ブロックを代表する機能として割り当てられた。それとは 別に、各ブロック内の道路名称が植物名・果樹名・特定地方の地名・偉人名・王国名など 個々に与えられたテーマに従って名付けられたから、道路名称からそのエリアが何ブロッ クに入るのかが推測できた。ただし個別の道路名が歴史の中で変化したところもあるよう だから、一律ということにはならない。 この衛星都市は中央部を南北方向のメインストリートであるシシ~ガマ~ガラジャ通り〜パ ンリマポリム通りとパティムラ通り〜スルタンイスカンダルシャ通りが走り、東西方向は ウォルテルモ~ギンシディ通り〜トゥルノジョヨ通り〜キアイマジャ通りが貫通し、辺縁 部にはセノパティ通り〜スルヨ通りが東北部、ウィジャヤ通りが東南部、クラマップラ通 り〜ガンダリア通りが西南部、パクブウォノ通り〜ハンルキル通りが西北部の境界線をそ れぞれ形成してクバヨランバルの外周を巡る道路配置になっていた。[ 続く ]