「スカルノのジャカルタ(23)」(2026年02月12日) 住宅用地は敷地面積3百〜3千5百平米のヴィラタイプ用が55.1Ha、敷地面積2百〜 8百平米の中流層向け69.8Ha、敷地面積140〜300平米の庶民タイプには152 Ha、フラット6.6Ha、そして社会機能を持つ建物用に75.2Ha、商店や売店用17Ha が配分され、軽工業用地20.9Ha、公園118.4Ha、道路181.5Ha、地域辺縁部 での水田用地等33Haという面積割り当てがなされた。各住宅エリアから近い場所に学校 ・病院・警察所などが配置された。 住宅家屋は基本的に塀のない構造で作られ、住民が塀を作りたい場合は生垣が推奨された。 恒久素材を使う塀であれば高さは60センチに制限され、非恒久素材のものなら高さ1. 5メートルが最大高にされた。 こうしてクバヨランバルには公園緑地としてTaman Patung Tumbuh Kembang, Taman PKK, Taman Christine Marta-Tiahahu, Taman Langsat, Taman Barito, Taman Leuser, Taman Puring等々、また墓地としてBlok P, Kramat Pela, Tanah Sebrang、更に加えてまるで公 園の中を抜けるような道路あるいは花壇や芝生を備えた歩道を持つ幅広い道路などが作ら れてJl Senopati, Jl Sriwijaya, Jl Brawijayaになり、おまけに東のクルクッ川と西の グロゴル川の河川敷緑地などがメンテンに劣らない公園都市クバヨランバルを形成するこ とになった。Blok SやAl Azharにスポーツファシリティも設けられた。 その結果、住民居住地域の周辺に用意された公園やグリーンベルトは144ヵ所に達し、 メンテン地区に劣らない公園都市の面目が施されたのである。1953年からシシガマガ ラジャ通り沿いで建設が開始されて1956年に完成したアルアズハル大モスクの東側に は広大なアルナルンまで作られた。しかしそのアルナルンは時の流れの中に姿を消して政 府公共事業省本庁がオルバ期の初期からそのスペースを埋めた。 バリト通りからマハカム〜サンピッ〜ムラワイの各通りに続く道は最初、スリカンディ通 りの名で一貫道路になっていた。その途中に設けられた8千平米のバリト公園には数ヵ所 の湧水泉の水を貯える池が設けられ、公園を美しく飾るために選別された花木や観葉植物 が植えられていた。 ところが1970年代になってから、そこに簡易な木造のキオスが出現して花屋や観賞魚 あるいは水槽用具などを販売する売店が店開きし、夜にはロティバカルの作り売り屋台が 陣取るようになって、自然を愛でるための公園がビジネススポットに変身した。しかし2 008年に元来の公園機能に戻されて、今はTaman Ayodyaとして再整備された公園になっ ている。 スシロのデザインに従ってCSWは1948年12月1日に土地買収を開始した。住民への 移転交渉が行われて家屋・店舗・家畜小屋など1,688件の建築物取り壊しと26種の 果樹70万本の伐採に対する補償が1949年1月になされ、総額1千5百万フルデンが 支払われた。 1949年3月8日に行われた起工式から一年も経過しない1949年末には2千軒の住 宅、42Kmの道路、17Kmの水道が既にできあがっていた。一年後の1950年3月には 150Haの宅地、100万平米の道路用地の整備が終わり、7ヵ所の噴出井が設けられて いた。 この工事が進められている最中にオランダ王国からインドネシア共和国への国家主権移譲 がなされたために、1950年6月1日に共和国政府が工事プロジェクトの監督を引き継 ぐ任務を担う専門機関Jawatan Pekerjaan Umum Kotabaru Kebayoranを発足させたものの、 CSWがすぐにお払い箱にされたわけでもない。[ 続く ]