「スカルノのジャカルタ(24)」(2026年02月13日) プロジェクトコントラクターのCSWが共和国の法制度に合致していない点に焦点が当てら れて、この財団法人は結局解散する運命をたどることになった。NICA政庁の法制度下に設 けられたものであるためにその法的ステータスが共和国のものから外れていたのは当然の ことだった。 Pembangunan Khusus Kotabaru Kebayoran部門が1951年に共和国政府公共事業省内に 設置され、クバヨランニュータウン公共事業局を吸収して1952年1月1日からプロジ ェクト工事を引き継ぎ、モハンマッ・スシロがその部門を統率した。 1952年末時点でクバヨランバルには4,473軒の家屋が立ち並び、学校14校、公 共ガレージ45ヵ所、パサル3ヵ所ができあがっていた。クバヨランバル建設プロジェク トが完了したのは1955年だった。 1950年ごろには、クバヨランバル地区の商業センターのひとつとしてPasar Mayestik がBlok Eに設けられ、Blok AにはPasar Blok AそしてBlok QにPasar Santaがオープンし ていた。パサルサンタはモギンシディ通りとスルヨ通りの交差点北西角に建てられた教会 Santa Perawan Maria Ratuからその名称が取られたそうだが、パサルと教会は距離がだい ぶ離れている。 パサルマイェスティッは、同じ時期にパサルのエリア内に映画館Majestik Theatreがオー プンしたので、映画館の名前にちなんで名付けられたと言われている。マジェスティック 映画館のオープニングは1950年12月23日だった。映画館建物のデザインはMスシ ロが自ら行ったそうだ。冷房完備で1千席の観客席を持つその映画館は文字通りマジェス ティックさを誇っていた。 この映画館の名前は英語で命名されたように思われる。というのもmajestik/majesticと いう綴りの語彙がオランダ語に存在しないらしい。ということは、元々英語だったものが オランダ語式発音でインドネシアの地名として定着したことが推測される。これはヨグヤ カルタ/ジョクジャカルタの逆転現象のひとつかもしれない。 マイェスティッ商業センターはその後、インド人がオーナーの布地販売店が集まって繊維 商品販売スポットの特徴を持つようになった。それとは別に、商店街の中にKhong Guanビ スケットのデポが店開きしたことから、ビスケットを目当てにしてそのパサルへやってく る消費者も増加した。 1967年6月11日午前4時ごろ、ブレン軽機関銃の連射音と装甲車らしい軍用車両の 全力疾走する音がパサルマイェスティッ周辺住民の眠りを破った。マイェスティッ商店街 の布地販売店パナイ、メラプティ、スジャティの三店に強盗団が押し入り、高価な布地ば かりを奪って逃走しようとしていたのだ。パサルの夜警見回り員が異変を知り、最寄りの インドネシア陸軍第0504軍管区司令部に通報したことから、軍の緊急出動が行われて 強盗団の3人が射殺され、積荷を乗せたトラックで逃げた残りの一味もスディルマン通り のスナヤンスポーツコンプレックス前に敷かれた非常線にかかって逮捕された。 クバヨランバルの中心商業センター地区はBlok Mであり、トゥルノジョヨ通り、ハサヌデ ィン〜イスカンダルシャ通り、ムラワイ通り、シシガマガラジャ通りで四方を包まれた区 画がこのブロックだったが、賑やかなセンター地区はバスターミナルの南側でムラワイ通 り寄りに位置するエリアだった。 1960年代にそのエリアはまだ稠密な商店街になっておらず、空地がたっぷりあって移 動遊園地がオープンしたりワヤンオランの舞台がかかったりしていた。1962年ごろに は伝統パサルがオープンしていたが、1968年6月に都庁が8千万ルピアをかけて市場 の建物を建設し、その中で132ヵ所の売場が3列になって軒を並べた。その後6階建て 大型ショッピングビルAldiron Plazaが1978年に建てられて伝統パサルは一旦その中 に入ったものの、そのうちに姿が見えなくなってしまった。[ 続く ]