「ジャカルタの墓地(1)」(2026年02月14日)

1619年にJPクーンがジャヤカルタを滅ぼしたとき、チリウン川沿いのパゲランジャ
ヤカルタの宮殿の北側に設けられていたアルナルンの南西角にあったモスクも他のすべて
と共に灰にされた。コタインタンの跳ね橋の辺りにジャヤカルタのパサルがあり、350
メートルほど南のコピ通り辺りにアルナルンと宮殿があったように思われるのだが、はっ
きりした位置はよくわからない。宮殿・アルナルン・モスクはたいてい、近い位置にまと
まって作られるのがジャワの慣習だった。パサルとアルナルン間の距離ももっと接近して
いたかもしれない。

昔からイスラム社会で習慣的に行われていた上流階層の墓をモスクの庭に作ることはジャ
ヤカルタでも行われていたはずだから、ジャヤカルタ統治者の一族の墓もその時に失われ
てしまったように推察される。墓地であろうが何であろうが、VOCは容赦なくバタヴィ
ア城市西岸の土地を平らにならして、バタヴィアの街をその上に築いていった。モスクの
墓地があったと思われるブロックの北と西に運河が通されているから、墓地が運河の一部
になった可能性も考えられる。

パゲランジャヤカルタがVOCと敵対関係に入ってから、ジャヤカルタはイギリス人を呼
び込んでジャヤカルタ市域の中に商館を建てる許可を与えた。VOCが東岸の商館を要塞
に改造したので、イギリス人はVOC要塞の対岸に商館を設けて大砲を並べた。その商館
の周辺にイギリス人は墓地を作ったと言われている。しかしその墓地もパゲランジャヤカ
ルタ一族の墓地と同じ運命をたどったはずだ。


バタヴィアで最初に建てられた教会は1640年に現在のワヤン博物館の場所に建てられ
たオランダ教会Hollandse Kerkだった。そのオランダ教会は1730年代に改築されてDe 
Nieuwe Hollandse Kerkという名称に改められた。しかし1808年の地震で崩壊し、バ
タヴィアの都市センターがヴェルテフレーデンに移されたために建て直しはなされなかっ
た。ヴェルテフレーデンの方が教会を必要としていたのだから。

JPクーンが1629年に急死したとき、かれの遺体はその当時建設中だったバタヴィア
市庁舎(現在のジャカルタ歴史博物館)の敷地に埋葬された。オランダ教会がマタラム軍
の砲撃で大破したと語られているので、教会付属墓地が使えるようになるまで臨時の埋葬
が行われたのかもしれない。そして後になってクーンの遺体はオランダ教会の墓地に移さ
れている。

ところが地震で崩れた新オランダ教会の残骸が取り払われたとき、墓地が他の場所に分散
された。その跡地に別の建物を建てるために整地され、その一環で墓地が移されたのだろ
う。そしてクーンの遺骨が行方不明になった。

1857年にジオウエリー(Geo Wehry & Co.)社が土地の使用許可を得て事務所と倉庫を
建てたとき、教会付属墓地はもうなくなっていたはずだ。そのあと1912年にその地所
に新しい建物が建てられ、その建物をバタヴィア芸術科学ソサエティが1938年に買い
取ってしばらく使用してから博物館を管理する財団に寄贈した。1939年12月22日、
そこに古バタヴィア博物館がオープンしている。その博物館の移管を受けたインドネシア
共和国はそれをワヤン博物館にした。

ワヤン博物館にはクーンの墓があるのだが、棺の中に遺骨は入っていないそうだ。一方、
現在マンディリ銀行博物館になっているジャワ銀行建物が1828年に建てられたとき、
そこにあった古い建物が取り壊され、整地作業の中で偶然にも古い墓が掘り出された。一
部のひとびとがその遺骨こそクーンのものであると主張しはじめたために論争が湧き起こ
ったものの論争は論争のまま幕を閉じ、結論は何も出されていない。

ジャワ銀行建物が建設される前、その土地にあったのは1641年に建てられた病院だ。
城市内病院Binnen Hospitaalと呼ばれたのは、ノルドヴェイクに設けられた病院と区別す
るためだったのだろうか。ビンネンホスピタルにも教会が設けられ、ムラユ語でミサが営
まれていた。オランダ教会は言うまでもなくオランダ語が使われていたが、ポルトガル教
会ではムラユ語が主に使われていたようだ。[ 続く ]