「ジャカルタの墓地(2)」(2026年02月15日) VOC時代のバタヴィア城市内には他にもいくつか教会が建てられている。そのひとつが 城市内ポルトガル教会Portugeesche Binnenkerkだ。現在のコピ通りとクニル通りを結ん でカリブサールをまたぐMiddelpunts Brugセンターポイント橋の北西角に1670年に建 てられたその教会は、その後火事のために焼失した。 1676年になって、現在のジャカルタコタ駅から4百メートルほど東の、マンガドゥア 通りとジャヤカルタ通りの三叉路東南角にPortugese Buitenkerk城市外ポルトガル教会が 質素な姿で建てられた。現在シオン教会と呼ばれているこの教会はバタヴィア城市の城壁 からだと目と鼻の先に位置している。城市の外に住む奴隷や解放奴隷あるいはプリブミの 礼拝のために建てられたものではないかと見られており、ポルトガルメスティ−ソが大勢 バタヴィアの奴隷になっていたことがそこから推察できる。 バタヴィア城市外に初めて作られたこの質素な教会建物はVOCが1693年に恒久的建 物に改築して1695年に竣工させた。この教会の敷地にも墓地が設けられ、百年以上に わたって埋葬の舞台を提供してきた。1790年までに4千の遺体がそこに埋葬されたと いう話になっている。 現在その一部がタマンプラサスティ博物館として残されているタナアバン墓地が1795 年に用意されて1797年9月28日にオープ二ングが挙行された。とはいえ、1795 年から遺体の埋葬は既に始まっていた。最初はKebon Jahe Koberと呼ばれた広さ5.5Ha (5.9Haと書いている情報もある)のタナアバン墓地はバタヴィア城市内の新オランダ 教会墓地からVOC高官たちの墓を移転させるのを主目的にして設けられたとされている が、城外ポルトガル教会墓地も閉鎖されて墓がタナアバンに移されたと述べている解説も ある。 クブンジャヘはタナアバン地区の一区画を占める土地の地名であり、コベルはブタウィ語 で墓、特にオランダ人あるいはキリスト教徒の墓を意味している。オランダ人がイ_ア語 単語をオランダ式修飾語法で使っていた例のひとつだろう。 今のタナアバンI通りは運河の上陸地点から墓地に向かうメインロードとしてKerkhoflaan の名で呼ばれていた。オランダ語のkerkは教会で、kerkhofは墓地を意味している。 インドネシア共和国独立後もその広大なオランダ人墓地は維持管理されていたが、197 5年になって閉鎖され、ジャカルタ都庁が中央ジャカルタ市庁舎をそこに設けることを決 めた。墓主に遺骨の移転が命じられ、一部の墓が移されたものの、連絡のつかない墓主も たくさんあったはずだ。中でも豪壮な墓碑の建てられている墓の主の間に、墓碑の処理に 困ったひとも出たのではあるまいか。墓碑は総数4千2百個にのぼり、都庁側は歴史遺産 として残されるべき墓碑を1,372個選択した上、墓地の一画を仕切って1.2Haの墓 碑博物館にすることを計画した結果、1977年7月9日にアウトドア形式のタマンプラ サスティ博物館が誕生した。 タマンプラサスティには、アチェ戦争を指揮する中で1873年4月14日に戦没した植 民地軍少将JHR Kohlerや1935年9月20日にバタヴィアで没したStovia企画実行者の HF Roll博士、1684年にバタヴィアで死去した孤児院設立運営者であるDE Jaques de Bollan van Luik、1690年の6月に36歳で亡くなったVOC軍務社員騎兵大尉のMD Johan Maurits van Happel、1707年に66歳で没したカスティルバタヴィアの商務長 Jacob van Almondeなどさまざまなひとびとの生涯を垣間見させる墓碑が並んでいる。 ウントゥン・スロパティとの戦闘に敗れて1686年にスラカルタの王宮で戦死したVO C軍指揮官Kapten F Tackの家族の墓碑もあれば、バイテンゾルフの宮殿で1814年に 病没したラフルズの妻Olivia Marianne Rafflesもタマンプラサスティにその墓碑を残し ている。オリヴィアは植物への造詣が深く、夫がボゴール植物園を設けることに大きい影 響を与えたと言われている。[ 続く ]