「ジャカルタの墓地(3)」(2026年02月16日)

ラフルズは亡妻をしのんで1816年ごろに植物園内にレディラフルズモニュメントを建
てた。その時期、今の植物園はバイテンゾルフ宮殿に所属する庭園の一部であり、まだ学
術施設になっていなかった。

ラフルズはバイテンゾルフ宮殿の東側の土地に植物園を設ける構想を立て、ロンドンのキ
ューガーデンを設けたW ケントを起用して広大な植物園を作らせた。その植物園が宮殿の
庭園から学術施設に衣替えしたのは、イギリスがオランダに東インドを返還してからのこ
とだ。

オランダ植民地政庁はプロシャ系オランダ人カスパー・へオルフ・カルル・レインヴァル
ツ教授を科学学術行政の一員に招き、その分野を担当させた。教授は植物学にたいへん明
るかったことから、かれはバイテンゾルフの植物庭園を学術施設としてより完成されたも
のに仕上げてその初代園長になった。公式に学術施設として発足したのは1817年5月
18日で、その後もバイテンゾルフ宮殿付属の植物園という地位に置かれていたが、18
68年5月30日に宮殿の管理から切り離されて独立した国家施設になった。 


タナアバン墓地の地所に中央ジャカルタ市庁舎が建てられたように、南ジャカルタ市庁舎
もクバヨランバルのブロックP墓地の上に2003年に建てられた。20世紀の終わりご
ろにブロックP墓地の閉鎖と墓の移転の話題が盛んになり、わたしの知人のジャワ人は親
の墓を掘り起こして遺骨を故郷に持ち帰り、新しい墓を作ったと話していた。ジャカルタ
に代々住んでいるひとたちが蒙るリスクのひとつが多分それなのだろう。

わたしがジャカルタの新参者になった1970年代初期のころ、わたしはクバヨランバル
に住んだ。クバヨランバルというニュータウンは1949年に建設が開始されて1955
年に完成している。ほぼ円形に近い形で設計されたこのニュータウンの中は狭いエリアで
のみ道路が碁盤の目状になっていて、長距離を走ると道路がいつの間にか湾曲して走って
いる方角が変化してしまうため、迷子になることがしばしば起こった。

このニュータウンの設計に際して、町の中はブロックシステムが使われた。町の中央に当
たるブロックKに公官庁、その南のブロックMに商業中心が置かれた。わたしが住んだの
は町の北西端のブロックEだったが、わたしが住んだころにこの町の中をブロック名で呼
ぶひとはほとんどおらず、地名になってしまったブロックMやブロックA市場、あるいは
ブロックP墓地などでブロック名を耳にするだけだった。

ブロックP墓地はそこが売春地区になっていたために有名だっただけであり、墓地として
の名声ではないようにわたしは思っている。プラパンチャ通りの北側に道路より低い墓地
がずっと奥まで連なり、その奥に掘立小屋が並んで周辺に若い女たちがたくさんいた。そ
の売春地区がいつごろ消滅したのかわたしは知らない。80年代にはもうなくなっていた
ように思われる。その情報をイ_ア語グーグルAIで探ったところ、ブロックP墓地で売春
が行われていたという情報は皆無であると一蹴された。過去の汚点はきっとこのようにし
て消去され、イメージ改善が行われるのだろう。[ 続く ]