「スカルノのジャカルタ(26)」(2026年02月15日)

1954年にチカジャン通りの家屋に入居したタムリン・アッマッさんは330平米の敷
地と家屋が4万5千ルピアで購入できたと語る。そのころクバヨランラマは人影の薄い土
地で、土地の価格も平米100ルピア程度だったそうだ。

ゴム農園が開かれたあとに作られたパンリマポリム通りで1950年代に少年期を送った
スサントさんは、そのころ地域内には家屋が3軒建っているだけで、静かな村落部の中と
いう風情だった、と物語った。道路脇に置かれた大きなドラム缶から水を汲んで自宅のマ
ンディ場に運ぶのが少年の日課だったそうだ。人間の往来などほとんどなく、静かで寂し
い場所だった。

ところがほどなくパンリマポリム通りに建物が建ち始め、道路沿いは短期間にビジネスセ
ンターに変身した。道路の両側を商店やオフィスが埋めるようになり、二階建て三階建て
の建物がシシガマガラジャ通り、ファッマワティ通り、ハジナウィ通りに向けて広がって
行った。


やはり初期の住民だったスブロト夫人は生活費がとても安かったと当時を懐古した。伝統
パサルへ行って肉・野菜・テンペなど一家に十分な量の食材を買い物しても財布から出て
行くのは7〜10ルピア。夫の月給は950ルピアだったからしっかり貯蓄に回し、それ
でも余裕があったから当時近場で唯一の映画館だったマイェスティッテアトルへも頻繁に
通った。映画館の客席は3クラスに分けられており、だいたいひとり2ルピア前後を払っ
ていた。

毎週末にはウィジャヤ通りとダルマワンサ通りに挟まれた公園内の天然の池に一家で遊び
に行き、子供たちは大喜びで池に入って泳いだ。水はとても澄んでいてきれいだった。公
園内には巨木や種々の植物が自然のまま生えていた。

池ではボートに乗って遊んだり、池の中ほどへ行って釣り糸を垂れるひとたちもいた。岸
でミミズを捕まえて大きな魚を釣り、持ち帰って夕飯のおかずにすることもあった。その
ために支出した費用は貸しボート代だけ。その緑地はいつしか姿を消して大きな邸宅やゴ
ルフ場に変わったものの、結局はゴルフ場だけが昔の緑地機能にもどされた。近隣住民は
昔の世代が楽しんだものより狭くなった公園Taman Darmawangsaでひとときの憩いを味わ
っている。

Blok Sではだいぶ後のころまで牛の飼育が行われていて、近隣の他のブロック住民は新鮮
な牛乳を飲んでいたという話も語られている。


建設プロジェクトが開始されて最初に設けられた三つのパサルはクバヨランバルに入って
来るメインストリートの入り口に近い場所に作られた。パサルマイェスティッはクバヨラ
ンラマからキアイマジャ通りに入って来るとすぐに到達できる。パサルサンタも東側のモ
ギンシディ通りから入って来るとほど近い場所にあり、パサルBlok Aも南のファッマワテ
ィ通りからパンリマポリム通りに入ってくればすぐの場所になっている。最初ジャカルタ
中心部とクバヨランバルの間を運行する市内バスはパサルBlok Aがターミナルになってい
た。1968年6月に広さ2.2HaのBlok Mバスターミナルがオープンして、その機能が
クバヨランバル中心部に移動した。

初期に三つのパサルが持った特徴はパサルで販売される商品の物流の便が考慮されたこと
を反映しているように思われるが、その要素は十数年が経過した後すでに考慮無用のもの
に変化したのではあるまいか。[ 続く ]