「ジャカルタの墓地(4)」(2026年02月17日)

Benhilと愛称されているBendungan Hilir地区の北を流れる西バンジルカナルに近い場所
にKaret Bivak墓地がある。マスマンシュル通りとプンジュルニハン通りの交差する東南
角地の16.2Haを擁する公共墓地がそれだ。政府からインドネシア国家英雄の称号を与
えられたブタウィ人Mohammad Husni Thamrinの墓所がカレッビヴァッ墓地にある。国家英
雄の称号を授けられたブタウィ人には他にもAbdurahman SalehやIsmail Marzukiがいる。

ジャカルタの筆頭儀典道路にその名を与えられたMHタムリンは1894年2月16日に
サワブサル地区の有力者の家に生まれて1941年1月11日に没した。プトジョ地区の
ホテルオーナーだったイギリス人のオーツとプリブミの妾の間に生まれたタムリン・モハ
マッ・タブリがかれの父親で、母の兄弟であるジャワ人プリアイがタブリを引き取って育
てた。1906年にバタヴィアのウェダナになって植民地行政機構内の高位者の道を歩ん
だ父親はプリブミ女性のヌルハナを妻にし、ふたりの間にMHタムリンが生まれた。

MHタムリンはバタヴィアでナンバーワンのカヴェドリを卒業してからパティ役所で働き、
有能さが認められてバタヴィアレシデン庁に勤務するようになった。汽船会社のKPMに
10年間勤務したあと、バタヴィア市議会Gemeenteraadのプリブミ議員に選ばれ、191
9年から政治家としての道を歩み始めた。

タムリンが作ったPersatoean Kaoem Betawiは1935年にストモ医師が発足させた全国
組織Partai Indonesia Rayaの中に吸収された。その時期、勢いを強めてきたインドネシ
ア独立運動にも急進派と穏健派があって、オランダを排除したプリブミのみの独立国家を
希求する非協調派と、オランダと手をつないで指導を受けながら民族国家を築き上げよう
とする協調路線一派との間にも論争が起こっていた。オランダ人はスカルノをその前者の
筆頭と見なしており、タムリンは後者に属していた。

かれの名声と評価がプリブミ社会で高まるのを見たドゥ フラーフ総督が1927年にタ
ムリンを国民参議会Volksraad議員に任命したのは、参議会の中にいるプリブミ急進派議
員の声を弱めるためのバランス均衡作戦だった。しかし能ある人間は、たとえ主義主張が
違っていても、互いに惹きつけ合うものを持っているのである。タムリンはスカルノと同
じ息遣いをしていたとインドネシアの歴史家は語っている。

スカルノが逮捕されてエンデに流刑される判決が出された公判で、タムリンは傍聴席にい
た。スカルノがタムリンの家を訪れたことが諜報員の監視から明らかになると、東インド
政庁はタムリンを自宅軟禁処分にした。

東インド政庁は1941年1月6日から、タムリンが日本側と共謀しているという理由で
自宅軟禁措置を与えた。体調が悪化していたタムリンはそれからほどなく世を去った。ブ
タウィ民衆の指導者として庶民から愛されていたタムリンの葬儀にブタウィ社会は総出で
参加した。千人を超える庶民が遺体を墓地に運ぶ葬列に加わったため、遺体がカレッビヴ
ァッ墓地に到着したとき、葬列の最後尾はハルモニ交差点のあたりにあったという話が語
り継がれている。


クバヨランラマ地区の西南でビンタロ地区との境界に位置しているのがTanah Kusirだ。
1965年にタナクシルにオープンした公共墓地もジャカルタで名高い場所のひとつに入
っており、何人もの国家英雄がそこに眠っている。

クシルというインドネシア語は馬車の御者を意味しているから、タナクシルという地名は
御者の土地という意味になる。地元で流布している地名の由来譚によれば、その土地はひ
とりの御者の土地だったそうだ。そんな広い土地の地主がなぜ馬車の御者などをしていた
のかという疑問が湧くだろうが、それは順番が逆なのだ。馬車の御者をしていた者が広い
土地の地主になったのである。地主になるためにかれは放屁の濡れ衣を自分からかぶった
のだ。[ 続く ]