「スカルノのジャカルタ(28)」(2026年02月17日) 国際世界に認められた主権国家としてインドネシア共和国が誕生したとき、ジャカルタの 街はメンテン地区南端の西バンジルカナル/ラトゥハルハリ通りが南縁になっていた。そ んなジャカルタの街にできた南北方向の大通りは少々不便な構図になっていたのである。 ボゴールを目指す南往き街道が市街の東部を通っているが、街中の南部エリアとは距離が 離れすぎているのだ。 街の中心部にあるメインストリートとしては旧バタヴィア市街からモーレンフリートを経 てハルモニに達する道がある。その道の南往きはハルモニでタナアバンに向かう道と西メ ダンムルデカ通りに入る道に分かれる。タナアバンからはクバヨラン〜チプタッ〜ボゴー ルへ向かう街道に続いているというのに、西メダンムルデカの道は元々、広場の端までく ると住宅街に突き当って南には進めない形になっていた。そこからは西に向かって住宅エ リアの中を通り抜けるGang Scottがタナアバンへ向かう道につながり、また南メダンムル デカ通りに曲がって少し進むとクブンシリ通りに抜けるGang Holle(Jl Haji Agus Salim の北端部分)があって南に向かうことができた。 ガンホレが作られたときはクブンシリ通りまでしかつながっていなかったが、後にそこを 越えてもっと南のTamarindelaan(Oude Tamarindelaan、今のJl K.H. Wahid Hasyim)ま で延ばされてLaan Holleになった。その後メンテン地区ができると、メンテン地区北西に 設けられた聖テレシア教会の脇を通ってナッソーブルファルまで達する道路とラアンホレ が繋げられた。その新しく作られた道路はTheresiakerkwegと命名されたものの、今はそ の全線がハジアグッサリム通りという一貫道路になっている。 テレシアケルクヴェフはナッソーブルファルにつながっただけでそこで終わり、南には下 らない。ナッソーブルファルからラトゥハルハリ通りに至る一番近い道は少し東を南北に 通っているJavaweg(Jl. HOS. Cokroaminoto)だ。ところがヤファヴェフに西バンジルカ ナルを渡る橋はまだかかっていない。 だからジャカルタ市外の南部地区に向かう幹線道路は南往き街道、タナアバン〜パルメラ 〜クバヨラン街道、そしてチキニ〜マンガライ〜パンチョラン〜パサルミング街道という、 すべてがボゴールに向かう三本の道しかなかったのである。現在のジャカルタ最高位のメ インストリートであるタムリン〜スディルマン通りはそのころ、まだ影も形も出現してい なかった。 折しも衛星都市クバヨランバルの建設がたけなわの時期であり、西メダンムルデカ通りと クバヨランバルを結ぶメインストリートをジャカルタ市内の中央に貫通させることが市内 交通の便を大幅に向上させるのは明白だ。その状況に居合わせた為政者ならみんなそう考 えるのではあるまいか。 1920年代にオランダ人も似たようなことを考えたという話がある。1920年代に作 られた地図の中に、現在のタムリン通りの位置に点線で長さ1.6Kmの建設予定道路の記 されたものがあったそうだ。西メダンムルデカ通りから南に1.6Km伸ばせば現在のホテ ルインドネシア前ロータリーの位置に行き当たる。多分、ナッソーブルファルの西端につ なげる構想がそれだったのではないだろうか。 そして1940年代の地図には、西メダンムルデカ通りからまっすぐ南にクブンシリ通り までつながるGang Timboelという道路があったことが示されている。ガンスコッの南側地 区は全長3百メートルほどのガンティンブルで東西に切断されたのである。そのガンティ ンブルが共和国時代になってタムリン通りの誕生を促すことになった。[ 続く ]