「スカルノのジャカルタ(29)」(2026年02月18日) ガンティンブルが作られる前、西メダンムルデカ通り南端の突き当りは住宅エリアになっ ていて、西に向かうガンスコッ(Jl Budi Kemuliaan)の入り口辺りにアルメニア教会があ った。 アルメニア教会は最初、1831年にバタヴィアのアルメニア人コミュニティメンバーの ひとりであるJacob Arathoonがその場所に建てたSt Hripsimeという名のチャペルだった。 実業家であるヤコブが私財を投じて建てたもので、キリスト教の祭祀やコミュニティの集 会などがそこで行われていた。ところが1842年に火事で焼け落ちたため、ヤコブがそ れを建て直した。19世紀ごろバタヴィアのアルメニア人コミュニティはそれなりの規模 になっていたようだ。 アルメニア人はVOC時代から東インドにやってきて通商や他の事業を行っていたと言わ れている。マルクに住んでスパイス貿易に携わり、成功者を輩出していたらしい。VOC は1747年3月31日にアルメニア人を同じ白人と認める決定書を出しているので、V OC社員としてかれらが東インドに来ていたのでないことがわかる。 1852年になって、アルメニア人コミュニティがそのチャペルを拡張して教会を作った。 資金はコミュニティからの寄付金で賄われたが、ヤコブの未亡人Mariam Arathoonとその 未婚の実妹Togouchie Manoukのふたりが資金の多くを負担したそうだ。そのふたりには未 婚の兄Gevork Manoukがおり、1827年に60歳で没した兄の遺産を相続したふたりは たいそう余裕のある暮らしをしていたらしい。亡くなった兄はタナアバンのキリスト教墓 地であるKober Tanah Abangに葬られた。 日本軍の進攻で東インドのオランダ時代は幕を閉じ、その後のインドネシア独立闘争と共 和国成立という歴史の流れの中で、オランダ人と同一視されたアルメニア人コミュニティ はインドネシアを去るしか道がなかったようだ。かれらは一旦シンガポールに移住してか ら、最終的に3百人くらいが米国に移った。その後、インドネシア銀行建物群の建設工事 の関連でアルメニア教会は1964年に取り壊された。 現在ブディクムリアアン通りという道路名になっているガンスコッはスコットランド人ロ バート・スコットに因んで命名されたものだ。スコットランドからオランダ東インドへや ってきたスコットは東インド政庁アヘン商業統制監視官になって財産を築き、ガンスコッ の土地を買って地主になったと語っているイ_ア語記事があり、また別にスコットはスマ ランの港務長官をして財を築いてからバタヴィアに移ってガンスコッの地に定住したと述 べているものもある。このロバート・スコットは小説アイヴァンホーの著者サー ウォル ター・スコットの遠縁の親戚にあたるそうだ。 ガンスコッの一帯はScott's Villageと呼ばれており、ヴィレッジのぬしの豪邸はガンス コッとコニングスプレインヴェストが作る角地に建てられていた、とある記事に書かれて いる。今現在Indosatビルが建っている場所だ。かつてのガンスコッには王立自然科学学 会、バタヴィア市議会、バタヴィアレシデン公邸などがあってその道路の権威を高めてい た。 ガンスコッ南側の区画はタムリン通りが作られてからインドネシア銀行占有地になった。 ブディクムリアアン通り〜タムリン通り〜クブンシリ通り〜アブドゥルムイス通りで切り 取られる区画がそれだ。そのためにその区画にあった建物はイ_ア銀行が利用できるもの を除いてすべて姿を消した。アルメニア教会も消滅したひとつだ。 ガンティンブルができたとき、現在のイ_ア銀行占有地ブロックはすでに形成されていた はずだ。しかしその区画を国家中央銀行占有地ブロックにする政治意志はかなり長い時期 を経てから固まったように見える。タムリン通りを国家第一級の道路にする政策とそれは 同期していたのではないかという推測がそこから導かれるだろう。 建築家フレデリッ・シラバンのデザインになる9階建てのインドネシア銀行ビル建設工事 が1958年に開始され、1963年に完成した。公式オープニング式典は7月5日に挙 行されている。それまでバタヴィア旧市街南部のDe Javasche Bank N.V.ビルで業務を行 っていたインドネシア中央銀行は新しい場所に全業務を移し、ジャワ銀行建物はインドネ シア銀行博物館として一般に公開されることになった。[ 続く ]