「スカルノのジャカルタ(30)」(2026年02月19日)

クブンシリ通りまでしか届いていなかったガンティンブルを1.6キロ南まで延長させて
Nassauboulevard・Madoeraweg/Grisseeweg・Kebon Katjangという三道路の合流点まで引
いて来る道路工事は1952〜1953年に行われ、その道路にJl M.H.Thamrinの名が与
えられた。その三道路の合流点というのは現在のイマムボンジョル通り・モッヤミン通り
/スタンシャッリル通り・クボンカチャン通りが集まって来るホテルインドネシア前ロー
タリーの地点だ。クバヨランバルから北上してくるスディルマン通りの前身が1953年
ごろにあったのかなかったのかはよくわからない。少なくとも現在見られるタムリン〜ス
ディルマン通りの規模と体裁は1960年代初めに完成したようだから、タムリン通り自
身も作られた当初はまだ貧相な卵の姿をしていたのかもしれない。現在のジャカルタとい
う都市が見せている姿の基盤はスカルノ大統領が描いた理想に従って構築されたものだっ
た。

スカルノは植民地支配者のオランダ人がアジアに築いたヨーロッパの飛び地としてのバタ
ヴィアを否定し、ヌサンタラの固有文化を花開かせるための花壇としてジャカルタという
都市の基盤を構築しようとしたのである。そのために、ジャカルタの都市構造の発展に不
連続が起こるのを避けることができなかった。というよりも、それがスカルノの望む所だ
ったと言う方が当たっているようにわたしには感じられる。惨めだった過去との決別だ。

そのころ、ジャカルタの街を大改造するチャンスをスカルノは手に入れた。1958年に
東京で開かれた第3回アジア大会のおり、5月23日に第4回開催場所の投票が行われて
ジャカルタが選ばれたのだ。それは国威発揚の大きな機会をスカルノにもたらす契機とし
て作用した。陸上競技場・国内と外国からの出場選手と役員の宿舎・モダンな高級ホテル
・観光客のための宿泊施設や商業センターなどの建設、道路や建物あるいはランドマーク
などの都市景観の整備・・・。新興インドネシア民族が世界に示す顔をジャカルタという
都市に描く機会がもたらされたのである。第4回アジア大会はジャカルタで1962年8
月24日から9月4日まで催された。


クバヨランバルの北に位置するスナヤン地区にスポーツ競技場コンプレックスを建設する
ことが決まり、次いで選手と役員のための宿泊施設としてインドネシア初の5星級大型ビ
ルホテルがホテルインドネシアという名前で建てられることになった。同時にインドネシ
ア最初のデパートビルの建設も計画された。それらのすべてが、新たに設けられたジャカ
ルタの幹線道路であるタムリン〜スディルマン通りに沿って立ち並ぶ。

それらの建設工事に関連して、タンジュンプリオッ港から建築資材を陸送するためにジャ
カルタバイパスと呼ばれる道路が作られた。タンジュンプリオッとチリリタンを結ぶ全長
27Km のその大型道路建設工事は米国の援助で行われたものだ。バイパス建設工事は1
960年の初頭から開始され、アジア大会のために建設される諸施設に必要な資材がタン
ジュンプリオッ港に届くとそれらは効率よく建設現場に運ばれていった。

タンジュンプリオッからチャワンまで来た車両は西に向きを変えてハルヨノ通りに入り、
スディルマン通りに向かう。ハルヨノ通りはスポモ通りとの交差点でガトッスブロト通り
に名を替える。ガトッスブロト通りが北西に向きを変えながらスディルマン通りと交わる
場所は丘になっているために、北のトマン〜スリピ〜グロゴルへと続くその道路には橋を
架けてそこを立体交差にすることが決まった。

インドネシアに初めて建設されたランプ式インターチェンジがそのスマンギ立体交差点だ
ったのである。ガトッスブロト通りに橋が作られたのでJembatan Semanggiという名称で
一般に呼ばれたが、橋の下が河でなくて道路であるという構造もインドネシアで初めての
ものだったらしい。スマンギ橋へ行って見たら下に河がなかったという笑い話が初期のこ
ろに流布したそうだ。[ 続く ]