「スカルノのジャカルタ(32)」(2026年02月21日) スディルマン通りの建設に関する情報があまりにも少なくて、1960年代に入る前に道 があったのかなかったのかは判然としない。1900年ごろにあったDonanwegが後にスデ ィルマン通りになったという記事がネット内に見られるものの、傍証を探したが何も見つ けられなかった。1950年以前の地図には、西バンジルカナルの南側で現在のスディル マン通りが通っているエリアに道路はまったく見られず、地図に描かれているのは上で述 べたボゴールに向かう三つの街道だけなのである。 ドナンヴェフという道路は、ホテルインドネシア前ロータリーと西バンジルカナル北側の Dukuhエリアの間にあった短い道路のひとつだったのかもしれない。バタヴィアvsジャカ ルタ道路名対照表の中にJl ThamrinもJl SoedirmanもDonanwegも出てこない。バタヴィア 時代にタムリン〜スディルマン通りが存在しておらず、ドナンヴェフがインドネシア独立 後に道路名が変更されることなく姿を消したのであれば、対照表の中にそんな結果が反映 されることになるだろうと思われる。 一方、1960年代に入るまでスディルマン通りにはビルなどひとつも建てられておらず、 平屋の建物しかなかったと述べている記事がある。その話に従うなら道路があったという 結論が得られそうだが、しかし50メートル道路になる前の道がたとえあったとしても、 行政がスディルマン将軍通りという名前をその道に与えたとは考えにくい。 スディルマン通りはスナヤンスタジアムと同じようにソ連の援助で建設されたという話を わたしは1970年代前半の時期に聞いていた。ところがイ_ア語グーグルAIはそれを否 定した。わたしの昔得た情報が事実と違っていたということはあっておかしいものでない。 時代の移り替わりという進歩の中で昔の真実事実がひっくり返されることはこの世であた りまえの現象だ。 しかしインターネットAIは別の真実事実を示すことなしに、そんな情報はないという形で 否定を行ったのだ。インターネット内に蓄えられた情報知識の中に書き込まれていない事 実真実をAIが否定するのは当然のプロセスだろうが、このできごとに直面してわたしは首 を傾げた。果たしてこれはただそれだけで終わらせてよい問題なのだろうか? ネット内に蓄積された情報知識の中に本当にそれがないのかどうかをわたしは知ることが できない。人間がAIに情報操作や知識内容の誘導を行わせていれば、情報の有無と無関係 にAIは同じ反応をわたしに示してくる可能性があるように思われるのである。 それはともかくとして、クバヨランバルとタムリン通りを結ぶ大型の幹線道路スディルマ ン通りが1960年代初期に建設されたときにスナヤンロータリーが作られたのではない かという推測をわたしは抱いている。スディルマン通りが北端でタムリン通りに接続する 場所にはホテルインドネシア前ロータリーが作られており、道路の南端がクバヨランバル に入って行く地点にもロータリーを設ければ首尾一貫することになる。 タムリン通りでは北端の西メダンムルデカ通りとの接続点の他に、クブンシリ通りとワヒ ッハシム通りの交差点にもロータリーが設けられた。スディルマン通りの両端にロータリ ーを設けるのは、都市景観という面から首尾一貫することになるだろう。 しかしタムリン通りのロータリー型交差点は通行車両の増加によってロータリーが車道に されて信号機交差点に変わった。結局今のタムリン通り〜スディルマン通りには三つのロ ータリーが残り、それぞれに彫像が置かれている。 そのスナヤンロータリーに高さ24.9メートルのPemuda Membangunの彫像を設ける工事 が1971年に開始され、1972年3月に完成式典が行われた。筋骨隆々たる青年が灯 りを頭上に掲げているその像はImam Supardi率いる建築アーティストビューローチームが 制作したものだ。鉄筋コンクリート製で表面にテラゾーが塗られたその像の制作はプルタ ミナが資金を負担して完成品を政府に寄贈した。 一見してスカルノ好みのリアリズムとイデアリズムを示しているような印象のその彫像に スハルトは開発青年という名前を与えた。[ 続く ]