「スカルノのジャカルタ(33)」(2026年02月22日)

スカルノは青年が批判と革命の精神を持つことを理想に掲げ、そのために青年が自己を鍛
えて強い力を蓄えることを推奨したが、スハルトは青年にそんなことを望まなかった。青
年の行う政府批判や政治運動を論破して青年層を自分の政策の手足に使うような個人的強
さをスカルノは持っていたのに対して、政府の定めた政策を受け入れてそれを自己の信念
にし、その実行に専念することをスハルトは青年層に望んだのだ。経済開発を国家方針の
基盤に据えたスハルトは青年に対して、政治への関与など忘れて一心不乱に開発を実践す
る精神と肉体の強さだけを求めたのである。

筋骨隆々たる青年が灯りを頭上に捧げている姿はポジティブな解釈がいろいろ可能だと思
われるものの、オルバ政府がそう命名したことでその時代の理想とされる青年の持つべき
精神性のオリエンテーションが決まることになった。pizza manとかhot-hands harryなど
という綽名がその彫像に付けられたのは、そんなオルバの姿を反映するものだったのだろ
うか?


アジア大会催行のためにメインスタジアムが建設された。その場所を決めるに当たってス
カルノ大統領はある日、建築家フレデリッ・シラバンを誘ってヘリコプターに乗った。上
空から予定地を探そうと言うのである。スディルマン通り沿いでメンテンに近い場所をス
カルノは考えていたので、カレッ〜プジョンポガン〜ドゥクアタス辺りが大統領の心づも
りになっていたところ、シラバンはその意向に反対した。都市中心部にスポーツコンプレ
ックスを作ると交通のスムースな流れに障害をもたらす可能性が高くなることをシラバン
が指摘したのである。スカルノはその献策を受け入れてスナヤンに白羽の矢を立てた。

こうしてスナヤン地区3百Haを買収してそこに一大スポーツコンプレックスを建設するこ
とが決まり、その中心になるメインスタジアムの建設にソ連が協力を表明して1,250
万米ドルの借款と建築のための技術支援をインドネシアに提供した。

スディルマン通り〜ガトッスブロト通り〜グルバンプムダ通り〜アシアアフリカ通りで切
り取られる区画がGelora Bung Karnoと名付けられ、その区画の中心部に11万人の観客
収容能力を持つメインスタジアムが建てられた。GeloraはGelanggang Olah Ragaの頭字語
であり、スポーツアリーナを意味している。このメインスタジアムは1960年2月8日
に工事が開始されて1962年6月21日に完成し、7月21日17時からオープニング
を祝うフェスティバルが開催された。

メインスタジアムの周囲にも多数の運動競技場やコートが設けられた。Istana Olah Raga
略称Istoraと名付けられた屋内競技場が1961年5月に完成した。宮殿という言葉が使
われているので、メインスタジアムと勘違いするひとが出るかもしれない。さらに水泳ス
タジアム・中型スタジアム・テニススタジアムが1961年12月に完成し、バスケット
競技場が1962年6月に建てられ、それらの合間にソフトボール・サッカー・バスケッ
ト・アーチェリー・ホッケーなどのコートが配置された。

南側エリアにはフラットやバンガロータイプの3千人を収容できる宿泊施設群が設けられ
た。男子選手用宿舎Wisma Aneka Iと?、女子選手用宿舎Wisma Hasta、国際大会コミティ
役員宿舎Hotel Asriなどが1962年5月に完成している。

アジア大会実況中継をテレビ放送するために政府がインドネシア初のテレビ局を設け、グ
ルバンプムダ通りの北側にそのための施設が建てられた。インドネシア国営放送テレビ局
Televisi Republik Indonesia略称TVRIがそのとき誕生したのだ。


オランダ時代のジャカルタに陸上競技スタジアムはサッカー場が数ヵ所に点在していたが、
大規模な陸上競技スタジアムはなかったようだ。植民地時代の末期にコニングスプレイン
の北側にアミューズメントパークや公的機関のオフィスが建ち、南部には乗馬・サッカー
・テニスなどのコートが設けられてスポーツコンプレックスの趣を呈していた。

コニングスプレイン南部の広いエリアを陣取って競馬場が設けられていたのを、日本軍政
期にインドネシア人がスポーツ競技場にして使うようになり、インドネシア共和国になっ
てからそれは陸上競技スタジアムに作り替えられた。

日本軍政期に発足したIkatan Atletik Djakarta(略称IKADA = ジャカルタスポーツ連盟)
のグラウンドであるLapangan IKADAは1951年に観客席が設けられてスタジアムになり、
国民スポーツ祭典、略称PONの第二回大会がそこで開催された。しかしスカルノはそんな
スタジアムをアジア大会の会場にする気はなかった。ジャカルタには最初からスポーツコ
ンプレックスとして建てられた最新施設がなければならないのである。[ 続く ]