「スカルノのジャカルタ(34)」(2026年02月23日) スポーツコンプレックスブロックとしてのグロラブンカルノを建設するために、その区画 に住んでいたおよそ6万人の住民が1959年5月19日から立ち退きを開始した。ブタ ウィ人をメインにする住民は新興独立国家インドネシア共和国の誇りをその故郷に築くた めにエゴを抑えて国家方針を優先し、生まれ故郷を明け渡したのである。 トゥブッTebet地区が引っ越し先として用意され、立ち退き者のために国が土地を支給し た。立ち退きの賠償金と土地に生えていた樹木の補償金が与えられ、元の土地の広さに応 じて国が新しい土地を支給したものの、所有地所の面積は縮小した。持っていた3千平米 の土地に対して引っ越し先の面積は6百〜1千平米、もっと小さい面積であればもらえる 地所は90平米になった。立ち退き者には引っ越し前に新しい土地権利証書と現金が全額 支給された。 しかし立ち退き補償はとても満足できるものでなかったと言う声もある。それによれば、 政府が立ち退き者に用意した土地は9x15メートルというユニットで、百平米の土地で も家屋のクオリティが良いものであれば広い土地が与えられ、千平米の土地を持っていて も家屋が見すぼらしければ狭い土地しかもらえなかったとその声は述べている。 今、グロラブンカルノエリアはスナヤンという地名で呼ばれているが、スナヤン部落はそ のエリアのほんの一部だったらしい。そのエリアにはSenayan, Petunduan, Bendungan Udik, Pejomponganの4部落があった。メインスタジアム・中型スタジアムやプラザスナ ヤンの建てられたエリアがプトゥンドゥアン部落であり、タマンリアスナヤン・TVRI ・国会議事堂一帯はクボンクラパ部落・プジョンポガン部落・プトゥンドゥアン部落の混 じり合う境界エリアになっていた。 スナヤン部落の領域は西の端がスミッマスビル一帯からスディルマン通りを越えてグロラ ブンカルノ区画の中まで入るような形になっていたのではあるまいか。スナヤンロータリ ーやラトゥプラザの辺りもスナヤン部落の土地だったのだろう。 現在の行政区画では、グロラブンカルノブロックはグロラ町になっており、スナヤン町は スディルマン通りを隔てて対岸にあるというのに、グロラ町が通称スナヤンと呼ばれてい るのである。本来のスナヤン部落の中心は今のスナヤン町のほうにあった。グロラブンカ ルノが公式名称に定められる前、その区画は既にグロラスナヤンという名前で呼ばれてい たそうで、立ち退きがスナヤン部落から開始されたからだと解説している記事がある。 スナヤンという地名の発端はWangsanajaという名前のバリ人レッナンが1680年ごろそ の土地の著名人になっていたことに由来していて、1902年の地図にWangsanajan(ワ ンサナヤのもの)という地名が記されている。1914年の地図にはカンプンプトゥンド ゥアンとカンプンチャンドラに隣接しているカンプンスナヤンの地名を見出すことができ る。18〜19世紀にかけての時期に、バンテンと西ジャワの境界付近に住んでいたひと びとが多数スナヤンに移住してきたために住民人口の増加が起こった カンプンプトゥンドゥアンはグロラブンカルノの北西部分であり、カンプンチャンドラは いま、大臣官舎が並ぶウィディヤチャンドラ住宅地区になっている。 東トゥブッ地区に住んでムハマディヤの地元役員をしているムッリス・ノールさんは小学 3年生のときに立ち退きして今の家に引っ越した。昔住んでいた場所をかれは鮮明に記憶 している。今のスルタンホテルの裏側に当たるスナヤン東駐車場の一角がかれの生家だっ た。かれが親と一緒に住んでいたその家はブンドゥガンウディッ部落のガンマシュミにあ って家からスディルマン通りまで20メートルくらいしか離れていなかった。高速3車線 と低速2車線を持つ巨大な道路を通行する車両はまだ少なくて道路は閑散としており、低 速車線をデルマン馬車や荷車が通っていた風景が記憶の中にある。スルタンホテルからス ナヤン東駐車場を経てメインスタジアムに至るまでのエリアはブンドゥガンウディッ部落 の領域だったのだ。[ 続く ]