「スカルノのジャカルタ(35)」(2026年02月24日)

グロラブンカルノに変身する前のそのブロックでは果樹園と養魚池が広いエリアを占め、
近隣各所のパサルに果実や魚を送って金銭収入を得ている住民が多かった。トゥブッに立
ち退いた住民の中に牧畜を家業にしていた家もあり、牧牛はチプリル地区に移して人間は
トゥブッに住んだケースもあったそうだ。

それとは別に、各家庭の主婦たちは自宅でバティッ作りを行っていた。ブンドゥガンヒリ
ル・スティアブディ・カレッテンシン地区にバティッ会社があり、それらの会社は主婦が
自宅で作ったバティッを買い上げて流通ルートに乗せていた。スマンギ橋立体交差の北側
にGKBIのビルがあるのも、その辺りの状況に関わっていたように想像できる。

他にも食品包装用にバナナ葉を切って束ね、それを販売する者もあったし、クトゥパッサ
ユルの作り売りをする家もあった。スナヤンのクトゥパッサユルは人気があったそうだ。
スムルタフとスムルクンタンに未熟パパヤの実とプテで作ったサンバルゴドッを混ぜたも
のがクトゥパッのおかずになっている。クトゥパッの皮を含めてそれらの素材のほとんど
が自宅近辺の生活環境の中から得られていた。

スナヤン立ち退き者のひとりでトゥブッに住んでいるザワウィさんの生家もブンドゥガン
ウディッにあった。スディルマン通りからは百メートルほど離れていたがヒルトンホテル
に近い場所にあり、ホテルが建つ前その土地には水田と養魚池があって川が流れていた。
川の水はたいへん澄んでいて、かれは遊び仲間たちとその川でよく水浴していたそうだ。

スナヤンからトゥブッに引っ越したブタウィ人は多数が1970年代に他所へ移ったから、
スナヤン立ち退きのブタウィ人は3〜4割くらいしかトゥブッに残っていないとムッリス
は語る。トゥブッを去ったスナヤン立ち退きブタウィ人はクバヨランラマ・パサルミング
・プジャテン・ブカシ県タンブンなどに散らばったとかれは述べている。

かれらが再引っ越しをしたのは強盗恐喝のターゲットにされたからだ、という話を語って
いる記事がある。トゥブッに住んでいるスナヤン立ち退き者は誰もが俄か金持ちだという
ことが世間に知れ渡ったために、その情報が悪人たちを引き寄せるマグネットになった。
夜中に5人〜10人の刃物を手にした男たちがやってきて表扉を押し破って侵入し、金を
出させて引き上げる事件があちこちで起これば、そんなエリアに住みたいと思う者はいな
くなるはずだ。かれらブタウィ人小市民たちはチェンテンを雇うような余裕もなければ習
慣も持ち合わせていなかった。たとえチェンテンがひとりふたりいたとしても、相手が集
団強盗であれば勝ち目はなさそうだ。

加えて所有地が小さくなったから、子孫に分け与える遺産としての土地もなくなった。か
れらは仕方なく、国が与えたトゥブッの土地を叩き売って地価の廉い田舎に移り、立ち退
き前に故郷で所有していたくらいの広さまで地所を回復させるように努めた。レンテンア
グン・チガンジュル・スレンセンサワなどが引っ越し先だったとも語られている。


第4回アジア大会が大成功の裡に幕を閉じてからしばらく経つうちに、グロラスナヤンブ
ロックの一部でコマーシャル施設の建設が盛んに行われるようになってきた。1970年
代に入ってからガトッスブロト通り沿いの土地にはヒルトンホテルとジャカルタコンベン
ションセンター、アシアアフリカ通り南の三角地帯にはホテルや商業センターが建つよう
になったのだ。そのころは、スカルノ時代が終わってオルバ時代の進展しつつある時期に
当たっていた。スハルトの政治方針であるインドネシア経済開発立国が欧米資本主義諸国
の支援のもとに進行していた。スカルノのマルハエン国家から純粋資本主義国家への移行
が始まったのだ。

スナヤン立ち退き者たちの多くはその変化を快く思わなかった。そのころ、トゥブッに住
んでいるスナヤン立ち退き者の間でこんな話が交わされていたのである。
「スポーツコンプレックス建設のためにわれわれは立ち退きに応じたのであり、ホテルや
ショッピングセンターの用地にされるのではまるで話がちがってくるじゃないか。こんな
ありさまは好きになれない。」

かれらは国家の新しい顔を作るというスカルノの理想主義に賛同して従順に国家方針に従
ったのである。スハルトの資本主義がわれわれの義侠心に泥を塗ったとかれらは感じたに
ちがいあるまい。[ 続く ]