「スカルノのジャカルタ(36)」(2026年02月25日) ちなみに言うなら、トゥブッ地区もグロラブンカルノ区画建設と時を合わせて開発された 新興住宅地区だったのである。スナヤン側を無人の地にするためにそれまで無人の地だっ たトゥブッ地区に町を作ったのだ。オランダ時代の文書や地図にTebetという地名は見当 たらず、そのエリアは無名の湿原地区として放置されてきた。 トゥブッという地名の由来はスンダ語で湿原を意味するTebatだという論がある。無名の 湿原地域を地元スンダ人が湿原と呼んでいたのを行政官吏たちが地名だと思ったのだろう か?その語源説からはどうもそのような雰囲気が漂ってくる。 一方でTebetという語彙はブタウィ語だという説もある。ブタウィ文化の基盤にスンダ文 化があるのだから、ムラユ語を基盤に持つインドネシア語の中にそれはムラユ語だと言い 得る語彙がたくさんあるのと同じ現象のようにも見える。ただしブタウィ語のトゥバッは 密集した植生を指しており、その土地が湿原であるかどうかを問わないらしい。 メステルコルネリスの西側でメンテン地区から南東に出たところに位置するマンガライ地 区に大型鉄道施設が設けられたことによって、19世紀末ごろにはマンガライ地区に住宅 が増加していた。マンガライはパンチョラン〜パサルミング〜デポッを経てバイテンゾル フに達する街道が通っている土地であり、1873年にバタヴィア〜バイテンゾルフ鉄道 線路がその街道沿いに敷かれたので、街道沿いで鉄道駅が作られたエリアには町が発展し 始めていた。ただし、マンガライからプジャテンまでの街道と線路は東西に離れており、 プジャテンから南が文字通りの街道沿いになっている。 北のマンガライ地区と南のパンチョラン地区、東の鉄道線路と西のパサルミング街道に挟 まれているエリアが新開発されたトゥブッ住宅地区であり、鉄道線路と街道は1.5Kmほ ど離れている。今のトゥブッ郡はもっと東側のチリウン川までのエリアを含んでいるが、 トゥブッニュータウンは線路の西側までだ。地図を見れば、宅地区画と道路が規則正しく 計画されて作られているエリアがニュータウンであるのがすぐにわかるだろう。 生まれ故郷の肥沃な広い土地の中で暮らしていたスナヤン、プトゥンドゥアン、ブンドゥ ガンウディッ、プジョンポガンの部落民たちが湿原を開発して作ったトゥブッ住宅地区に 移り住んだとき、かれらは自分のライフスタイルを大きく転換せざるを得ない状況に立た されたはずだ。初期の移住を体験したひとたちは、初めて目にしたトゥブッ住宅地区のあ りさまに愕然としたのではあるまいか。埋め立てられた湿原の上に整地された道路と宅地 区画が並んでいるありさまは、それまでかれらが暮らしていた環境とあまりにも違い過ぎ ていた。おまけにその遠景にまだ手付かずの湿原の姿が映りこんでいれば、ショックはま すます大きくなったように推測される。 1960年に夫と4人の子供たちと共にトゥブッに移り住んだマッムナさんはそのとき3 0歳代初めの主婦だった。一家はGanefo 2と名付けられた道路に面する150平米の土地 を国から与えられてトゥブッに引っ越した。だが立ち退き賠償金はたいした金額でなかっ たから、その土地に家を建てることができない。しばらくしてから一家はGanefo 6通りの 知り合いの家に厄介になることにした。ガネフォ6通りにも家屋は4軒しか建っておらず、 そのうちの一軒がその家だった。今そのエリアは住宅密集地のど真ん中になっている。 この新開発住宅地区の夜は文字通りの真っ暗闇だったそうだ。オルラからオルバに時代が 代わると、ガネフォというスカルノ政治色べったりの道路名はすぐに変更されて、Tebet と東西南北を組み合わせた道路名に替えられた。[ 続く ]