「スカルノのジャカルタ(37)」(2026年02月26日) マッムナの一家は1948年までクバヨランイリルのマバッ部落に住んでいた。場所は1 956年にクバヨランバル北部に設けられたアルアズハル大モスクのあるエリアだ。衛星 都市クバヨランバル建設プロジェクトコントラクターのCSWは1948年12月1日に土 地買収を開始し、マッムナの一家はその直後にスナヤン部落の西の端に移り住んだ。そん なことを体験したこの一家が11年後に同じ憂き目を再度見ようとは夢にも思わなかった にちがいあるまい。 まだ家のないトゥブッの土地に引っ越したもののそこですることは何もなかったから、夜 はスナヤンの家で寝た。そしてある日の朝に取り壊し作業者の一団がやってきて、一家が 遠巻きに見守っている中でその家屋を崩した。それでも一家はそこで待った。何を待って いたのかはかれら自身にもわからなかったようだ。 しかしそのあとはだれもそこへやって来ず、そうこうしているうちに陽が高く昇って暑さ が増して来たため、一家はしかたなくトゥブッを目指してそこから立ち去った。 トゥブッで始まった暮らしはたいへんだった。雨が降ったあとの道路はぬかるみ、脛がす っぽりと泥の中に埋まった。雨が降り始めると、マッムナは急いで下の子供を縁台の上に 上げた。水はすぐに地上を埋め尽くして胸の高さまで上がるのだ。そんな状態になると歩 いて移動できるものではないから、みんな小舟で出かける。道路が濁流の下のどこにある のかさえ分からなくなるので、深みに落ちれば危険だ。 スナヤン時代にマッムナと夫は裁縫師の仕事をしていた。地縁の中で仕事をしていた環境 が立ち退きでバラバラに分解されたために、注文をくれていた人間とのコンタクトも途切 れてしまった。定職がなくなれば、収入を得るための活動をあれこれせざるを得なくなる。 マッムナはチョンブロを作ってジュンバタンリマまで売り歩いた時期もあるし、マッサー ジ師をしたこともある。 夫はあれこれとさまざまな商品の売買を行った末に、土地の売買を始めてから家計が安定 するようになった。かの女の一家はきっと運の良かった立ち退き者の一例なのだろう。ス ナヤン立ち退き者の多くがトゥブッでの暮らしに耐えられず、もっと田舎へ引っ越して行 きましたよ、とマッムナは言う。引っ越したひとたちは、条件の悪いトゥブッの土地を安 く叩き売って去り、それらの土地は最終的にジャカルタの金持ちたちの手に入った。 トゥブッ地区のインフラと住環境が向上してから、金持ちたちの邸宅がトゥブッ地区に建 ち始めた。いまトゥブッ地区はジャカルタのアッパーミドルクラス層住宅エリアという定 評を得ている。ステータスが伸び上がった1980年代の前後にはモダンなカフェやレス トランが大通りにオープンし、ディストロ(distribution outlet)が軒を並べ、ファッシ ョナブルなオフィスが街路樹の奥に建てられた。 トゥブッ湿原地区の変化を見守った地元民もいる。いまは西トゥブッと呼ばれているエリ アに昔からあったクボンバルチュルマイ部落で生まれ育ったムハンマッ・ライスさんは、 トゥブッという地名は元々、雑木や草の茂った広大な湿原エリアをみんながそう呼んでい たために名付けられたと物語る。かれの集落の周囲は遠くまで人間の居住がまったく見ら れない場所だった。人間が集まって居住する部落や集落にはそれぞれが独自の地名を名乗 るのが人間のユニバーサルな習慣だ。地元民は自分の住んでいる集落に個性的な名前を付 け、自然のまま残っているエリアを指してトゥブッと呼んでいた。 ところが、政府がその湿原をスナヤン住民の立ち退き先に取り上げたためにその無人の湿 原の呼び名が地域の地名にされ、部落や集落が名乗っていた独自の地名はすべてがトゥブ ッという地名の中に溶け込んで姿を消してしまった。 湿原地区の周辺部にできていた集落では果実採取・水田耕作・淡水魚養殖などが住民の主 活動になっていた。スナヤン住民の立ち退き先として湿原の宅地開発がなされた結果、地 元民もそれまでの経済活動の場を失い、使用人や肉体労働者に仕事を変えた。トゥブッの 開発は実に多くの人間に生き方の方向転換を強いる契機をもたらしたと言えるだろう。 ライスの父親は持っていた1千平米の果樹園を平米25ルピアという賠償金で手離さざる を得なかった。収入を得るために自由に使っていた土地がわずかの賠償金で取り上げられ、 自分たちと同じような階層であるスナヤン立ち退き者ばかりの町の中で共同生活をするこ とになったのだ。わずかに営まれていた産業すら崩壊したトゥブッの中でとても暮らしを 立てることのできない者が新来者にも先住者にもたくさん出現した。先住者は昔から住ん でいた土地を売ってチタヤムやボゴールに引っ越していった。[ 続く ]