「スカルノのジャカルタ(38)」(2026年02月27日) スカルノの描いた新しいジャカルタの都市構想の中に、一等地に立つモダンな大型高級ホ テルの姿があった。第4回アジア大会のホスト国が決まる前からスカルノは既にその構想 を抱いており、ヨーロッパ人がモーレンフリート沿いに設けたジャカルタ最高の国際級ホ テルであるオテルデザンドがジャカルタのホテル界をリードしている現状を覆して民族主 義の路線に乗せることがその分野におけるかれの目標になっていたように思われる。 自力で民族独立を勝ち取ったインドネシアを訪れる外国政財界の要人たちの宿泊するホテ ルが植民地時代の古い遺産であっては、新興独立国の矜持が保てないにちがいあるまい。 作られたばかりのタムリン通りに8階建てのビルホテルを建設する計画が1956年に新 聞で報道された。公表された計画は2年間協議されて完成度の高まったものだったという 情報が追加されたから、スカルノのホテル建設構想がアジア大会に誘発されて形成された ものでないことをそれが示していると思われる。 スカルノはマルゴノ・ジョヨハディクスモに建設用地探しを手伝わせ、スティッノ・ルキ トディサストロに用地買収を命じた。建設用地はジャカルタの最高級住宅地区であるメン テンを見渡せる場所、そして新しいジャカルタのメインストリートに沿っている交通の要 衝が望ましい。そんな立地条件を持つ場所はあまりない。 タムリン通り南端でスディルマン通りと接続する地点、東からメンテン地区のメインスト リートであるイマムボンジョル通りとモッヤミン通り/スタンシャッリル通りが、そして 西からタナアバンとメンテンをつなぐクボンカチャン通りが集まって来る地点よりもっと 最適な場所が他にあるだろうか。 道路西側の土地2万5千平米がホテル建設用地として買収されることになった。そこはク ボンサユル部落の領域で、道路周辺の大部分は湿原の農園地帯になっていたから大規模な 住民の立ち退きは起こらなかったようだ。 Kampoeng Kebon Sayoerという地名は、メンテンという大消費地ができてからそのエリア で野菜の栽培が盛んになったことに由来していると解説されている。ところがそのエリア のブタウィ人先住者が野菜栽培を行ったのでなく、ボゴールからスンダ人がやってきてそ れを行い、品物を売り歩いたそうだ。スンダ人はその売上金を土地オーナーのブタウィ人 とシェアした。 ホテルの建設工事が始められたころ、クボンカチャン地区東南端(現在ホテルグランドハ イヤットとプラザインドネシアが建っている場所)には湿地の中に野菜畑がたくさん作ら れており、そこでホウレンソウ・サラダ菜・シンコン・芋・セロリなどが栽培されていた と当時の工事関係者が述懐している。低湿地帯というそのエリアの地形を整えるために 4.6Haを砂で埋め立てて海抜1メートルの平坦地に均す作業に時間を取られた結果、基 礎工事の開始に手間取ったというのがその懐古談だ。 積層ビルタイプの大きいホテルはそれまで、ジャカルタはおろかインドネシアのどこにも 作られたことがなかったから、ホテルインドネシアが最初のものになった。東南アジアで も初めてのものだったという説もある。おまけに国際ホテルスタンダードの5星級ホテル にしたのだから、第二次世界大戦後の新興国家群の中で魁のポジションを得たのは疑いの ないところだろう。[ 続く ]