「スカルノのジャカルタ(39)」(2026年02月28日) 米国籍建築家エイブルとウエンディのソレンセン夫妻が起用されたのは、大型モダンホテ ルの建設経験を持っていないインドネシア人建築界にそれをさせるには荷が重すぎるとス カルノが判断したためだったようだ。自分自身が建築工学士であるスカルノにはそれがよ く見えていたのだろう。 外国のその種のホテルに何度も宿泊して自分自身の身に着いている感覚的なものが、それ を持っていないインドネシア人建築家に明瞭に伝わらない不安があったにちがいない。西 洋人建築家ならば、かれらの学習と経験の中にビルホテルの実例がたっぷりと蓄えられて いるはずだ。こうして、西スマトラの雰囲気を持つモダンホテルというテーマに従って二 棟のビルが建てられた。 南側に14階(15階と書いている記事もたくさんある)で高さ52メートルのラマヤナ ウイング、北側に8階建てのガネシャウイングがT字形を成す形で配置され、ラマヤナウ イングにはラマヤナテラスと名付けられたレストランの小さい建物が付属した。ガネシャ ウイングには広さ45x23メートルの卵型大広間が作られ、Bali Roomと命名された。 ボールルームと謳われたバリルームでは、大規模会議あるいはコンサートやシアターなど の催事がそこで行われるイベントのメインを占めたようだ。 T字形の建物配置は、各部屋で太陽光線が均等にシェアされ、またジャカルタの街をでき るだけ広角に見ることができるようにという配慮だったと説明されている。このビル型ホ テルがジャカルタ最初の高層ビルだったのであり、そしてまた、インドネシアで初めてリ フトが建物の中を上下した。 しかし建設工事は第4回アジア大会の開催地が決まるまで待たなければならなかった。国 家予算が無尽蔵にあったわけではないのだ。日本がインドネシアに戦争賠償金を支払うこ とが1958年に合意された。インドネシアの観光基盤になるインフラの建設を戦争賠償 金でまかなうことをスカルノは考えて実行に移した。その建設に日本を巻き込んで、日本 側の出費を賠償金支払いに充当させれば双方にメリットをもたらすだろう。 インドネシア共和国初期の観光産業の中心を担ったジャカルタのホテルインドネシア、ヨ グヤカルタのアンバルッモパレスホテル、プラブハンラトゥのサムドラビーチホテル、バ リのバリビーチホテルがそのようにして結実した。他にもジャカルタのサリナビル・独立 記念塔(モナス)・TVRI・パレンバンのアンペラ橋などが日本からの賠償金で建設さ れている。 インドネシアの国有建設会社と日本の民間建設会社の間でホテルインドネシア建設プロジ ェクトのために作られた合弁会社に工事が発注され、建設工事は1959年12月に開始 された。延べ1千2百人の労働力と40億ルピアの投入された建設工事は2年半の歳月を 呑み込んで1962年の半ばに完成した。ホテルの内装に使われた資材の多くが日本から 送られたものだった。 このホテルのマネージメントのためにインドネシア政府は米国のインターコンチネンタル ホテルコープと協力契約を結んでホテル運営の助力を得た。インターコンチネンタル側は ホテルインドネシアをアジアパシフィック地域で最初のグループチェーンメンバーとして 扱った。ホテル建設工事が行われているときにロバート・ケネディ米国上院議員が視察に 訪れている。 ホテルインドネシアで初めての宿泊客は1962年7月16日にチェックインした米国人 ロバート・アットウエル氏だ。そのとき、ガネシャウイングはまだ稼働しておらずラマヤ ナウイングだけが使用できたので、初ゲストはラマヤナウイングに泊まることになった。 その初ゲストはロックフェラー財団の社員で、本人とたくさんの荷物をベチャに乗せてホ テルにやって来たというエピソードが語られている。そのころの宿泊料金は一泊が10〜 24米ドルだった。[ 続く ]