「スカルノのジャカルタ(41)」(2026年03月02日)

リー・マンフォンが大統領宮殿専属画家の職を務めたのは1961〜1968年で、その
作品の制作にはリム・ワシム、シャウ・スウィチン、リー・レルンらが協力した。現寸の
MDF板に貼られたキャンバスに描く前にリーはまず紙に構想を描いてスカルノに示し、ス
カルノが手直しを指示したのでリーはそれを描きなおした。最初の構想を描いたものはイ
ンドネシア人コレクターの所蔵になり、描きなおして現物のマスター版になったものは大
統領宮殿の芸術品管理部門が保管している。


静的なアートだけでなく、動的なものもホテルインドネシアに欠かせないものだった。1
969年にはラマヤナルームがミスインドネシアページェントの会場に使われ、またしば
しばファッションショーの舞台を提供した。バリルームに設置された当時の最高性能を誇
る映写機は世間の評判を取り、バリルームで1970年にアジア映画祭が開かれ、また1
972年にはヤマハギターフェスティバルが催された。

それらの積極的な文化活動は1960年代にホテルインドネシアに設けられた芸術文化セ
クションと無縁でない。その担当者に任じられたティム・カントソとスティーブ・リムが
ジャズファンだったために、ジャズ音楽がホテルの中に導き入れられた。ビル・サラギ、
ディディ・チア、ウレ・パティセラノ、ボブ・トゥトゥポリたちがジャズライダーズを編
成して、ホテルの夜をジャズ音楽が彩るようになる。

後にトゥグ・カルヤという名前でインドネシアの演劇界をリードしたスティーブ・リムは、
1968年からバリルームでポピュラー劇場と名付けた芝居の定期公演を開始した。おか
げでスラマッ・ラハルジョ、Nリアンティアルノ、リマ・ムラティ、ティティ・カダルシ、
トゥティ・インドラ・マラオン、デウィ・マティンダスら多くの俳優を集めた演劇活動の
舞台がジャカルタの中にひとつ増えることになった。このテアトルポプレル劇団はアリス
・ガーステンバーグやニコライ・ゴーゴリの作品を上演した。スラマッ・ラハルジョは、
ホテルインドネシアは食事して寝るだけの場所ではないのだと語っている。

1963年から1968年までホテルインドネシア専属歌手兼MCを務めたボブ・トゥト
ゥポリは、スカルノが語った言葉を覚えている。
「このミニインドネシアをしっかり見守って育ててくれ。われわれは偉大な民族なのだ。
給料や報酬金額をどうこう言うのでなく、われわれが偉大な民族であることを示すために
働くのだ。民族の誇りのために。」

スカルノはホテル従業員を東ジャカルタのチジャントゥン地区タンジュンティムルで合宿
させてホテル業務の教育訓練を行わせた。また軍隊に命じて従業員に規律訓練を施したこ
ともある。

スカルノはホテル従業員に、ホテルインドネシアはボトルネックなのだという講義を行っ
た。瓶の中にあるインドネシア観光という空間への通り道が瓶の首であり、それがホテル
インドネシアなのだと大統領は言う。瓶の奥の空間へ観光客がスムースに入って行けるよ
うに、われわれはどうしなければならないのか?それを考えながら日常業務に励みなさい
と大統領は従業員に訓示したとホテルのベルボーイのひとりが語った話が1965年の新
聞に掲載された。[ 続く ]