「スカルノのジャカルタ(42)」(2026年03月03日)

1970年代半ばごろ、ラマヤナウイング屋上階のニルワナサパークラブはジャカルタハ
イソサエティのランデヴーポイントになっていた。ホテルインドネシアは24時間眠りを
知らないジャカルタのアミューズメントスポットになっていたのである。

ラマヤナレストランのブブルアヤムとオックステールスープはジャカルタの食道楽たちの
垂涎の的になった。そのメニューは、スカルノのコックでありホテルインドネシアの初代
シェフになったグスティ・グラ・ルチャッの編み出したものだった。

オーブンで温められた陶器の椀に注がれた鶏粥の中に半熟の鶏卵の黄身が入って供される
ブブルアヤムは22時から夜明けまでのナイトメニューであり、深夜にそれを食べるため
にホテルインドネシアを訪れるジャカルタ市民も大勢いた。

ラマヤナレストランばかりか、ニルワナサパークラブ、日本レストランのヤマザト、レセ
ハンマリオボロ、バクダパ、ガネシャバーなどがジャカルタのナイトライフを支えていた。
そんな場所のステージに立つ生バンドや歌手たちにとって、ホテルインドネシアの名はか
れらの実力レベルを示す評価基準の役割を帯びていた。

1960年代から1980年代終わりごろまでホテルインドネシアはジャカルタのハイソ
サエティにとっての豪華なナイトスポットの役割を果たしていたのだ。1982年には宿
泊客でない夜間来場客が1千2百人を数えたという記録が作られている。


アジア大会が終わってから10年間、ホテルインドネシアインターコンチネンタルは華麗
なジャカルタ最高級ホテルの地位を維持し、新興国インドネシアのアイコンのひとつであ
り続けた。インターコンチネンタルコープとの契約が満了してから、インドネシア人によ
るホテルマネージメントが開始され、1974年に太平洋アジア観光協会 (Pacific Asia 
Travel Association)国際会議がジャカルタで開催されることになったためにスハルト政
府はガネシャウイングの西側に新たに8階建てのバリウイングを建てた。その工事は19
72年4月から1974年3月まで行われ、1974年3月23日にオープニング式典が
催された。ジャカルタのホテルボロブドゥルとホテルグランサヒッジャヤでもその日一緒
にオープニングが行われている。

ホテルインドネシアは1977年3月14日にシェラトンホテルとの協力契約を結んだの
で、1981年12月31日までホテルインドネシアシェラトンという名前で運営された。
しかし1990年になってからジャカルタの街中に大型ホテルビルが続々と出現しはじめ
ると、ホテルインドネシアを利用していた客層が分散するようになり、ジャイアントがジ
ャイアントでなくなり、矮小化に向かいはじめたのである。経営に苦難が訪れた。その後
にインドネシアを襲ったアジア通貨危機を経たあとで、ホテルインドネシアは2004年
に営業をストップしてしまった。事業体にとっての一大転機が訪れたわけだ。

老朽化した施設と建物のリノベーションを行うべきその機会に政府はホテル運営の民営化
を決めて30年間のBOT契約を打ち出した。契約期間中のプロフィット分配は民間資本が
51%を与えられる。そのビジネスチャンスに応じたのがクレテッ煙草産業界のジャイア
ントだったジャルム社だ。

文化遺産建築物の指定を受けたホテルインドネシアのデザイン変更は禁止されているため、
元々作られたホテル建物の姿を維持しながらリノベーションが行われるとともに、ホテル
西側にはコンベンションホールや大型ショッピングビルから成る「グランドインドネシア」
が建設された。

ジャルムはホテル経営事業者としてスイスに本拠を置くケンピンスキーホテルズS.A.を
招いたので、2009年からホテルインドネシアはホテルインドネシアケンピンスキーと
いう新名称で再オープンを果たしている。[ 続く ]