「スカルノのジャカルタ(43)」(2026年03月04日)

ホテルインドネシアのための用地からクボンカチャン通りを越えて北側の土地、上でクボ
ンカチャン地区東南端と述べた区画にもアジア大会のために8階建てのビル型ホテルが建
てられ、ウィスマワルタと命名されて報道界の中枢機能を担った。

ウィスマワルタは第4回アジア大会の取材に訪れる各国特派員2百人のための宿泊施設お
よびプレスセンターとして1961年6月に建設が開始され、1962年6月に完成した。
建物のデザインは建築家クウィ・ヒンゴアンとスナルヨ・ソスロが共同で描いた。

このプレスセンターとアジア大会会場のグロラブンカルノスタジアムおよび郵便電信電話
局を結んで通信回線が引かれ、建物内には取材ホールと記者会見場・映画館・レストラン
・レクレーション設備などが設けられた。

ウィスマワルタの運営はグロラスナヤン財団が行っていたが、1968年になってホテル
インドネシアインターナショナルがグロラスナヤンと合意契約を結び、ウィスマワルタの
建物を改装してHotel Asokaの看板を出した。アソカホテルの営業開始日は1969年9
月26日だった。

1970年代の前半にわたしがホテルインドネシアに泊まったとき、アソカホテルのブブ
ルアヤムが美味しいという評判を耳にしていたので、朝にホテルインドネシアからアソカ
ホテルへ朝食を食べに歩いて行ったのを覚えている。そのころ、ホテルインドネシアのブ
ブルアヤムが美味しいということをわたしに教えてくれるひとは誰もいなかった。


その70年代のあるとき、わたしはボスの車でオフィスから外出した。ひとりだけで、連
れはいなかった。車がホテルインドネシア前ロータリーにさしかかるとボスのベンツ車の
運転手がわたしに冗談を言った。

わたしは外国人だから、孫のいるかれも当時の社会慣習に従って、息子のような年齢の若
造であるわたしをトアンと呼んでいた。この慣習はオルバ期に世の中の批判の的になって
姿を消した。トアンという言葉の持つ語感が植民地時代の人種間の上下関係を強く漂わせ
ていたためだ。

しかしわたしと同世代のひとの中にこの慣習から離れられないひともまだいて、40年く
らい経過した後の時代に、バリ島のフードコートで働いている老齢の女性にトアンと呼び
かけられたときにはくすぐったい思いをした。

「トアン、知ってるか?この辺は日本人が大好きなエリアなんだよ。」
そりゃあ、ここはジャカルタの最高級エリアなんだから、嫌な場所だと思う日本人はいな
いだろうし、人種が何であろうとみんな似たようなものだろうとわたしは思った。ところ
がかれはあくまでも日本人に関連付けるのである。

「日本人はここがあまりにも好きだから、しょっちゅうここの名前を口にしてるじゃない
か。『ハイ。アッそうか。』ってね。ハハハ・・・」
ホテルインドネシア、略してHI。そのインドネシア語発音がハーイーであることを知っ
ている相手でなければこのジョークは通じないだろう。

1980年代になってビマンタラグループがアソカホテルを買い取り、1984年にアソ
カホテルは閉鎖された。PT Bimantara Eka Santosaの買値は平米当たり1千米ドルだった
そうで、常軌を逸した高い不動産売買の話が噂の種になった。

ホテル建物は翌年に取り壊されてプラザインドネシアの建設工事が開始され、ジャカルタ
の最高級モールと謳われたプラザインドネシアが1990年11月にオープンした。また
ロータリー沿いにはホテルグランドハイヤットが1987年から建設工事を始めて199
1年3月にオープンしている。[ 続く ]