「労働蔑視(5)」(2026年03月05日) ライター: アクター別名アクティングサービス販売人、ブテッ・カルタラジャサ ソース: 2008年12月30日付けコンパス紙 "Cuti" ラッキーなことに、クリスマスは12月25日になっている。もしも一年を開始する日で ある1月1日と定められていたなら、休日日数を数えるのを趣味にしている勤め人たちの 失望は生半可なものではなかっただろう。「うわぁ、大損だ!」 休出手当がなくなるじゃないか。政府が強制する有休消化日を楽しめなくなる。どうやら それが民族的モットーである「Bersama kita bisa!」の実現形態のひとつだったようだ。 えっ、「何ができるのか?」だって?「Bisa cuti bersama.」だろう。つまり「Bersama kita bisa cuti bersama.」ってところかな。 この国の勤め人のハッピーなこと!雇い主が国であろうが民間であろうが、大した違いは ない。公的休日とウイークエンドがあまり離れていなければ、そこに連休が生じる。サボ り勤め人がHari Terjepit Nasionalを活用すれば、国家経済の浪費が国家国民を明白に覆 うようになる。 要するにそのことがらが心地よく、且つ歓びをもたらしてくれるものでありさえすれば、 だれもが戦闘的闘争者に様変わりするのだ。しかしハードワークを命じられたなら、心意 気は消沈してしまう。ロングホリデーが終わった直後の出勤日にオフィスのデスクの多く が休み中と同じ状態のまま継続しているのを見るがよい。 チュティブルサマは実にうっとりだ。政府の政策を攻撃するのが大好きなジャーナリスト たちも沈黙したままそれを愉しんでいる。新聞が発行されなくてもかまわない。読者はそ れを赦す。毎月の新聞購読料が一日分損しても、読者は広い心でそれを受け入れる。ジャ ーナリストに休日をおごってやっているのだと考えればいい。 チュティブルサマの日に新聞が発刊されないのは、休日に報道されるにふさわしいニュー スや出来事なんかないと言っているようなものだ。電子メディアや週刊誌だけがジャーナ リズムの義務を果たしている。理想とされる真のジャーナリストはいつでも事件を報道す るものだ。休日であろうがなかろうが。 クリスマスのチュティブルサマは、最初は良いアイデアだった。ハードワーカーに長い休 みが与えられるのだ。勤労好きな人間も折れて出て、一緒に休むのである。田舎に帰って 親戚知人たちと旧交を温め合う。あるいは観光旅行して金を使う。国内観光客になって地 方の経済を回転させるのに一役買うのである。そこでは外貨が減少することは起こらない。 一方の現実には、外貨が飛ぶように国外に流出している姿がある。金のあるひとびとはパ スポートを持ってホリデーを楽しむために国外に出て行く。意識が欠けているのだ。その 永遠なる無神経さ! われわれは教訓を見出すのに長けている民族だから、その状況を利用して自分の神経の繊 細さを世に示そうとする高官が警鐘を鳴らすだろう。「あんたはそれでも愛国者か?国が 憐れな状態になっているというのに、国が保有している外貨を外国にバラまきに行こうな んて・・・」 クリスマスだって、心安らかでない状態を見るわれわれの眼を繊細にしてくれる。慎まし やかに生きることが大切だ。巨額の買い物をして大枚を投げ出すのは慎むようにと教えて いる。太古の欲望が暴走しないように手綱をしっかり握れ、とクリスマスはすべての人間 に呼びかけているのだ。そしてすべての人間は連帯・ヒューマニズム・希望を心に思い浮 かべるのである。 クリスマスはわれわれに気持ちを引き締めることを思い出させる。グローバルクライシス はインドネシアをも揺さぶっているのだ。国家経済は息も絶え絶え。もしも息が止まって しまうなら、来年は数百万のわが兄弟たちに社会ステータスの変化が起こる。そう、かれ らは失業者になるのだ。そのドミノ効果はそらおそろしい。ひとは互いに疑心暗鬼になり、 犯罪は増加し、健康さは影をひそめ、倫理は崩壊し、貧困指数は最低値に達する。 今はチュティブルサマ休日を楽しもう。しかし気持ちを引き締め、神経を縦横に走らせる のを忘れてはならない。希望を抱き、人間を尊重し、チュティなどにかまけていられない ほどひどい不運に見舞われたひとびとがいることにも関心を向けよう。かれらは自分のた めのチュティに縁がない。ましてやチュティブルサマ制度などにも。 - ブテッ・カルタラジャサ [ 続く ]