「スカルノのジャカルタ(46)」(2026年03月07日) スカルノはブンダランハーイーの周りにもう一つジャカルタの顔を作らせた。高さ100 メートルを超える摩天楼というアイデアがそれだ。東南アジアでもっとも背の高い第一級 オフィスビルをジャカルタに建てるのである。アジア大会が終わった翌年の1963年に、 タムリン通りとスタンシャッリル通りの交わる北東角地でその建設工事が始まった。 ウィスマヌサンタラと名付けられたその摩天楼の建設工事も日本からの戦争賠償金を引き 当てる方式がとられた。ところがルピア交換レートの暴落と政情不安、そして結局行き着 いてしまったクーデター事件とそれが引き起こした国内の大混乱という環境の中で工事は ストップし、1969年まで5年間にわたって作りかけられたままの鉄骨が姿をさらすだ けという無為な歳月を過ごすことになった。 政権が交代して社会が落ち着きを取り戻してからコントラクターとの再契約が行われて工 事が再開された。その再契約の中に、ウィスマヌサンタラの北側にホテルを設けることが 追加された。こうして1970年4月に再開されたオフィスタワーの建設工事はホテルビ ルを含んで1972年に完了した。その年12月2日、地上高117メートル30階建て オフィスビルのウィスマヌサンタラとそれに隣接するHotel Presidentの完成式典が挙行 されて、スハルト大統領がそのオープニングを宣したのである。 ウィスマヌサンタラのオフィススペース賃貸料金がその当時のジャカルタの標準レベルよ りも高かったためにローカル企業はあまり入居せず、結果的に日系企業ばかりがそこにオ フィスを構えているような印象を世の中に与えることになった。そんなビルの屋上に設置 された巨大ネオンサインは日系ブランドの顔をジャカルタのすみずみにまで届かせて地元 民に日本経済の強さを思い知らせる文字通りのビルボードの役割を果たした。 1942年に銃を担いでやってきた日本人が今度はラジカセや冷蔵庫、四輪車やオートバ イを担いでまたやってきた。昔は聖戦の名のもとにインドネシア人から自由を奪い、戦時 体制下の窮乏生活を強いてありとあらゆる物資を運び去ったかつての歴史が、今度はイン ドネシアの経済を支配する形でまた繰り返されようとしているのではあるまいか。そんな 不安を扇動者が世の中に焚きつければ、何かが起こるだろう。 スハルト政権が経済開発を最優先政策に掲げて外国資本に広く門戸を開き、華人系資本に 握られていたインドネシア経済を政治の支配下に置こうとして動きだしたときに、投資国 の筆頭に立ったのが日本だった。スハルトの政策を好まない勢力が1974年1月15日 にジャカルタで反日暴動を発生させたという論がある。ウィスマヌサンタラはそんな状況 の中で、インドネシアの政治悪の一シンボルという衣を着せられたようだ。 ホテルプレシデンは1987年と1991年にリノベーションが行われ、2002年には ウィスマヌサンタラとホテルの間が連絡橋でつながれた。2003年4月1日からホテル 名称がホテルニッコージャカルタに変更され、既存のホテル建物の北側に11階(14階 と書いている記事もある)建ての新館が新たにオープンした。2005年になってホテル 裏側の場所に駐車ビルが建てられた。 2012年1月19日、ホテルニッコージャカルタはニッコーホテルズとの契約を終えて アコーホテルズと新たに契約を結んだ結果、ホテル名がプルマンホテルズ&リゾーツに代 わった。2014年2月13日にリノベーションが完了して、現在はPullman Jakarta Indonesia Thamrin CBDという名称で営業している。[ 続く ]