「スカルノのジャカルタ(47)」(2026年03月08日) ブンダランハーイーからタムリン通りを北に8百メートルほど進むと、ワヒッハシム通り との交差点東南角地にサリナビルがある。15階建て高さ74メートルのサリナビルはイ ンドネシアで最初の摩天楼だった。ジャカルタの顔のひとつとしてスカルノが期待した大 型百貨店がこのサリナデパートだ。もちろん百貨店は下のフロアだけで、上層階はオフィ スとして使われたからそれを勘違いしてはいけない。 日本からの戦争賠償金を充当させた建設工事は1963年8月17日に開始されて196 5年12月に完成し、12月22日に建物が施主に引き渡された。そして1966年8月 15日にオープニング式典が催されて、ジャカルタ初の「何でもある店」toko serba ada が開店したのである。ビル内にはリフトと共にこれもインドネシアで初めてのエスカレー タが備えられ、利用客誘致の目玉のひとつになった。 日本製でインドネシア初のエスカレータを体験しに大勢の市民がやってきたが、中にはそ んなことを知らずにやってきた来店客もあった。そんな客のひとりが階段のつもりで足を 乗せたとき階段が動いたために驚いて飛び降り、床に転がって目を白黒させたという話が 新聞記事になったそうだ。 ずっと後の時代まで、インドネシアのエスカレータはイ_ア人の生活スピードに合わせて ゆっくり動いていたという話もある。大勢のインドネシア人がシンガポールへ観光旅行に 行くようになった時代に、その違いを感じるイ_ア人が多かった。その違いは「歩く」と いうことに関連しているという解説がある。たいていの国でエスカレータは階段だから歩 く人が大勢いるのに反して、イ_ア人はエスカレータを人間の運搬具と考えているという ことがその違いを生んだそうだ。エスカレータとオートバイがイ_ア人を歩かない民族に したのかもしれない。 1966年8月15日にテープカットが行われたものの、百貨店の全フロアが一斉に開業 したわけではなかった。準備の整った売場が順番にオープンし、全売り場がフル回転する ようになったとき、サリナデパートは文字通りの百花繚乱「何でもある店」の名に恥じな い大型ショップの姿をジャカルタの街中に誇示していた。 台所用品や他の家庭用品・肉野菜や果実などの生鮮食料品・持ち帰り用伝統飲食品・アル コール飲料などは地階で、1階は装身具類・眼鏡製品、そして化粧品・裁縫用品・美容サ ロンなどの女性向け商品と男性向けの床屋や電気製品類・タバコなどの販売フロア。そこ には仕立て屋も売り場を開いていたし、外国人観光客のためのマネーチェンジャーも1階 にあった。 2階には繊維衣料品・工芸品や土産物・子供の遊び場・子供向けの散髪屋。3階は家具・ 書籍と文房具・楽器とスポーツ用品・レコードやカセットテープ・壁に掛ける絵画などが 豊富に置かれていた。バティッや土産物を探しに来た客の多くはたいてい2階に直行した。 ガムラン用楽器も2階の伝統工芸品売場で販売されており、わたしは1970年代に飾り 物として作られた小型のスルンタムをひとつ買ったことがある。 初日から連日、たいへんな来店客数が記録された。平日は一日2万人、週末は一日5万人 という数字が報告されている。来店客の7割が何かを買い物して帰ったそうで、一日の売 上金額は6億ルピアにのぼった。1米ドル250ルピアという交換レートの時代だった。 インドネシア最初のデパートとして設けられたそのサリナにスカルノが持たせようとした 特色は、国民の大多数を占めている小資本や零細資本の経済活動にインパクトを与える流 通機構でありアウトレットであるという性格だった。そのためにサリナデパートは何十年 にもわたって、バティッや木彫りなどインドネシアの民芸品がたいへん幅広いレンジで廉 価に販売されている店としての定評を得てきた。外国人観光客がインドネシアの土産物を 探すのに好都合な店の上位に位置するショップだったのである。 とはいえ、百貨店が贅沢な輸入商品や高級国産品のショッピングセンター機能を持たない で済む話でもない。要はビジネスの使命をどこにより深く置くかという精神論ではあるま いか。スカルノが鮮明に打ち出したそのビジネスミッションは相変わらずサリナデパート の経営基本方針としていまだに維持されている。[ 続く ]