「スカルノのジャカルタ(48)」(2026年03月09日) スカルノはインドネシアという国を成り立たせるために女性の貢献を強く求めた。女性を 家庭の奥にしまい込んで男性だけで国を成り立たせるわけにはいかない。国民の半分を占 める女性にも国家建設の一翼を担ってもらわなければ国家の発展を十分に達成することは 決して期待できない。女性も勤労し、経済活動を行い、国の発展に参加してもらわなけれ ばならないのだ。 スカルノはもちろん、イスラム教徒のひとりである。しかしインドネシアという国をイス ラム教の国家にせず、また政治が宗教をリードする形でかれはイスラム国民社会を原理的 でない方向に導いた。インドネシアのイスラムが中東のイスラムと一味違っているのは国 家設立の発端から始まっていたことなのだ。 サリナデパートに女性が活躍するための場としての機能が与えられた。サリナで働く者の 6割が女性で占められた。店名のSarinahという名称は幼少のスカルノの世話をしたベビ ーシッターの名前であり、スカルノはその年若い娘の大きな精神から薫陶を受けながら育 ったように見受けられる。スカルノの精神に偉大さを植え付けた人物のひとりがサリナだ ったにちがいあるまい。そんなサリナの精神性がサリナデパートで働く女性たちに受け継 がれるようにという願いをスカルノはその命名に込めたのかもしれない。 サリナデパートでは2,388種類の商品が販売される。店舗経営は国際スタンダードに なっているIBM方式で行われ、電子式キャッシュレジスターが売場に導入される。デパ ートの販売係を育成するために、政府は従業員の中から人材を選抜して外国へ派遣し、研 修を受けさせる。サリナデパートの概略に関してスカルノがその活動内容をより具体的な 言葉で物語ったのがそれだ。 スカルノはサリナの従業員にも合宿訓練を受けさせた。警察の協力を得てサリナ従業員に セキュリティ教育を施したのである。スカブミで3カ月間の訓練が行われ、公民や刑法の 知識の他に商品の安全確保や店員の護身術、消火技術・規律・きびきびした身のこなし方 などが教育された。 インドネシア人一般庶民の暮らしにより近付けた内容を持たせて庶民の親しみやすい場所 にすると同時に、店内に入ればインドネシア人の暮らしがこれからどのように進歩してい くかということを感じさせる場所がジャカルタの新しい都心部に誕生した。店内を見て回 って一休みしたい客をワルンでなくてコーヒーショップが手招きしていた。1970年代 にはボクシング教室がデパート内に開かれて、たくさんの青少年がボクサーから手ほどき を受けていた時期もある。 1990年代にはマクドナルドのインドネシア第一号店がサリナにオープンし、ハードロ ックカフェもサリナのテナントになった。しかしジャカルタの街中に30を超えるモール やトレードセンターが雨後のたけのこのように出現する時代に入ってから、サリナもワン ノブゼムの立場に滑り落ちて行った。 開店したころの集客力は衰え、店内はモダンなモールと比較して暗く、もっさりした倉庫 のような雰囲気を湛えている印象があるものの、倉庫並みであればこそ廉価な掘出し物を 見つけ出すチャンスも存在しているような気がわたしにはする。 1968年4月21日にサリナビルとタムリン通りの向いにある現在の総選挙監督庁建物 側の間に歩道橋が設けられた。インドネシアで最初に作られたこの歩道橋はカルティ二記 念日にオープンしたので、カルティ二歩道橋と命名された。その日、タムリン通り・スデ ィルマン通り・マトラマン通り・サレンバ通りで7つの歩道橋がオープンしている。 サリナビルの北側にワヒッハシム通りをはさんで建てられた映画館がDjakarta Thatreだ。 1969年4月に建設工事が開始されて1970年6月22日にオープンしたこの映画館 はひとつの大ホールに1千2百の観客席を持ち、銀幕の高さは9.5メートルだった。 サリナビルとジャカルタシアタービルの間にワヒッハシム通りをまたぐ橋がかけられたが、 1981年に橋が崩れ落ちる事故が起こった。 スカイラインビルがジャカルタシアターの西側でタムリン通り沿いに建ったのは1974 年のことであり、サリナビルとスカイラインビルをつなぐ橋は作られたことがないように 思われる。[ 続く ]