「スカルノのジャカルタ(49)」(2026年03月10日)

スカルノは1960年9月30日の国連総会でConfeence of New Emerging Forcesの提案
を表明し、西洋先進国の世界支配体制を揺さぶる発展途上国の団結を呼びかけるスピーチ
を行った。そのアイデアがCONEFOという言葉に凝縮された。

コネフォの行う国際スポーツ祭典のアイデアがまとめられて、オリンピック大会の向こう
を張ったGANEFO (Games of New Emerging Forces)大会がジャカルタで開催された。とい
うのも、第4回アジア大会でインドネシアが台湾とイスラエルの参加を拒否したために、
スポーツ大会に政治を持ち込んだとしてインドネシアの参加資格を国際オリンピック委員
会が停止したという経緯がそこにからんでいたのだ。

だがスカルノは反論した。国際オリンピック委員会がスポーツに政治を持ち込まないと言
っている言葉の下で北ヴェトナムや北朝鮮のメンバー参加を拒否しているではないか。オ
リンピックが西側エスタブリッシュメント諸国の道具であることは明白であり、政治ツー
ルそのものとしか言えない。

西洋資本主義諸国の植民地にされていた国々が東西陣営という政治衝突から離れて第三勢
力を築き、バンドゥン会議の精神をもとにして結成したコネフォが行うスポーツ大会は政
治的なスポーツ大会であって当然であり、その点においてオリンピックと何ら異なるもの
ではない。

その論争がどうであったにせよ、現実にインドネシアは1964年の夏季東京オリンピッ
ク大会への出場を承認されている。


1963年11月10日から22日までジャカルタで開催された第一回ガネフォ大会には
51ヵ国が参加し、2千7百人のアスリートがジャカルタのグロラブンカルノでメダルを
競った。メダル獲得順位は中国・ソ連・アラブ連合・インドネシア・北朝鮮がトップ5位
を占めた。この大会には日本も参加して7位に入っている。ヨーロッパからもポーランド
・アルバニア・チェコスロバキア・ハンガリーなどの他にオランダ・フランス・西ドイツ
・フィンランドの諸国も参加する大規模な大会になり、大きな成功を収めた。

ただしガネフォ参加国のほとんどがオリンピック委員会の懲罰を怖れて戦々恐々とし、オ
リンピックレベルの運動選手をガネフォに送り込まなかった。オリンピック委員会はスカ
ルノの挑戦に面と向かって対抗するような姿勢を示さなかったが、ガネフォへの参加を表
明した諸国に小声で威嚇を囁いたらしい。

インドネシアにとってガネフォ大会は前年に成功した第4回アジア大会の運営を再現する
ようなものだったにちがいあるまい。なにしろ国際スポーツ大会のためのハードとソフト
は整っていたのだから、せっかく既に建設したハードと育てたソフトを繰り返し使うこと
はインドネシアにとって有意義なことだったはずだ。

そのガネフォスポーツ大会に関連して1963年に36ヵ国をメンバーにするスポーツ連
盟が結成されて、ガネフォは大会名と同時に連盟の名称としても使われた。


ガネフォの第2回大会は1967年にアラブ連合のカイロで開かれることが決まったにも
かかわらず、その開催前に取り消しになり、その代わりということでガネフォアジア大会
が1966年11月にカンボジアのプノンペンで開催された。この大会には17ヵ国が参
加して2千人のアスリートがメダルを競った。

このガネフォアジア版のメダル獲得順位は中国・北朝鮮・カンボジア・日本がトップ4を
占めた。ガネフォアジア版第2回は1970年に北京で開催されることに決まったものの、
ガネフォを取りまとめていたスカルノがいなくなったためにその国際組織は空中分解し、
中国政府も開催の予定を取り消した。ガネフォ大会の火は二度、国際世界に光芒を放った
だけで地上から消えた。[ 続く ]