「スカルノのジャカルタ(50)」(2026年03月11日) 国際連合が西洋エスタブリッシュメント諸国に牛耳られた世界統制ツールであるという見 解に基づいてスカルノはそれら西洋諸国の植民地にされていたアジア・アフリカ・中南米 の国々を団結させ、東西冷戦から離れた中立的な第三勢力を築くことを目的にしてCONEFO という国家連合組織の編成を計画し、西洋列強の支配から抜け出た世界の中進・後進諸国 への働きかけを開始した。 かれの構想の焦点はそこにあったものの、ソヴィエト連邦に組み込まれた東ヨーロッパの 諸国を誘い込むことも忘れなかった。スカルノはソヴィエトロシアを西側欧米諸国と同じ 世界統制者のひとりと見なしていたが、その両者間でのイデオロギー対立の谷間を綱渡り して自分の世界構想に利を導く戦術をかれは実行したのである。砕いて言うなら、西側列 強との政治駆け引きにソヴィエトロシアの後ろ盾を使うという方法がそれだったのであり、 その手法が西側欧米諸国にどのような印象を与えたかは想像にあまりあるだろう。 スカルノ自身は西洋型共産主義を信奉したことがなく、イスラムの根底に流れている原始 共産主義を自分自身とインドネシアの双方にとっての原理の位置に据えていた。インドネ シア共和国という国家が作られたとき、その基本原理はスカルノの人間像とオーバーラッ プしていたのだ。スカルノが打ち上げたマルハエン主義というのがその面におけるかれの 精神傾向を的確に示しているとわたしは考えている。あまり理知的でなく、むしろ泥臭い 印象をたいていの外国人が感じるだろうとわたしは思う。 ソヴィエトロシアもそんなことは百も承知でスカルノを利用していたはずだ。インドネシ アに経済的技術的な援助を与えることでインドネシアを自己陣営に忠実な士官候補生とし て組み込むことができれば、スカルノに引きずられている諸国へのアプローチも容易にな ろうというものだ。 西洋エスタブリッシュメント諸国の思うがままにさせない国際連合に変えていくためにス カルノは1960年9月30日の国連総会で「新しい世界を築く」と題するスピーチを行 い、旧植民地諸国に団結するよう訴えた。そのコンセプトは1955年にバンドゥンで開 催されて大成功を博したアジアアフリカ会議の延長線上にあり、つまりはバンドゥン会議 の精神を具現化する意思表示だった。かれはそのスピーチの中で第三世界諸国の団結する 組織をConfeence of New Emerging Forces略称CONEFOと名付けた。 折しも、イギリス海峡植民地のマラヤ半島の諸王国がマラヤ連邦として1957年に独立 した後、イギリスはシンガポールと北ボルネオのサバ・サラワクをマラヤ連邦とひとまと めにしてマレーシア連邦を作り、1963年に独立させた。イギリスのその政策はスカル ノの目に新たな植民地主義且つ帝国主義と映じた。 旧植民地の全域をマレーシアという連邦国家にして支配下に置き続けることをイギリスが 意図しているのは明白だとスカルノは言う。連邦を構成している諸国に個別の外交権を与 えず、イギリスが実質を握っている連邦政府の命令に服従するしかない体制が作られたの である。イギリスの政策が新植民地主義並びに新帝国主義に根差しているのは疑いようが ない。 ネオコロニアリズムとネオインペリアリズム、略してNEKOLIMは世界の諸民族が平等の権 利を獲得するための大きな障害として立ちふさがっているのだから、それは断固粉砕され なければならないものなのである。イギリスの支配方針に唯々諾々と従っているマレーシ ア政府はネコリムの傀儡であり、マレーシア人民のためにそんな政府は覆されなければな らないのだ。 インドネシアは1963年1月20日にマレーシア連邦拒否を宣言した。国内にマレーシ ア対決戦争体制が敷かれ、宣戦布告なしにマレーシアとの戦争が開始された。インドネシ ア共和国軍は北ボルネオ地方でマレーシア軍の衣を被ったイギリス軍と戦闘した。 マラヤ半島とシンガポールにはインドネシア国軍兵士が潜入して市内で撹乱作戦を実施し た。その中の二人組が1965年3月10日にオーチャードロードのマクドナルドハウス に爆弾を仕掛けて爆発させ、シンガポール市民に死者が出た。実行者のふたりはシンガポ ール当局に逮捕され、死刑判決を言い渡されて絞首刑に処せられた。一方インドネシア政 府はそのふたりを国家英雄に叙した。[ 続く ]