「ジャワの大砲(7)」(2026年03月17日)

ジャワ島では古い時代から銃火器が一般的になっていたようだ。そのために戦争で銃火器
を使うのは当たり前のことになっていたのではあるまいか。ガジャマダがスンダ王国を支
配下に置こうとして奸計を用い、そのために起きた1357年のブバッの戦いではスンダ
軍の船に装備されていた大砲が火を吐いて、マジャパヒッ軍に大きい被害が出たことがキ
ドゥンスンダの中に詠われている。

ブバッのアルナルンに近い川にいたスンダ軍船の砲手が川の近くにいたマジャパヒッ軍部
隊に砲火を浴びせたために、頭や腕が吹き飛び、身体がズタズタになって、多数のマジャ
パヒッ兵が死体と呼べない死体になった。砲弾が雨のように降って来たので、マジャパヒ
ッ軍は後退を余儀なくされた。ブバッの戦いの緒戦はそんな形ではじまったらしい。


馬歓は1413年の著作「瀛涯勝覽Yingyai Shenlan」の中で、ジャワでは結婚式を祝っ
て大砲が撃たれていると書いた。夫が新婦をエスコートして新婚の家に入るとき、太鼓と
ゴンと爆竹と共に大砲も撃たれたそうだ。

マジャパヒッ軍は1413年ごろの戦争でムリアムガラと手持ちチェッバンを使ったとい
う記録がある。15世紀の西洋世界で銃火器が飛躍的な進歩を遂げたことをアラブ商人が
ヌサンタラに伝え、16世紀に始まったポルトガル人のアジア侵略でヌサンタラはその進
歩の最新版を実体験することになった。その間ヌサンタラでも諸地方にさまざまな知識が
伝えられて、各地でチェッバンの改良が精力的に進められてはいたのだ。


1817年に出版されたラフルズのThe History of Javaには、ジャワでは1325年に
大砲がたくさん使われていたと書かれている。マジャパヒッ王国がその筆頭で、マジャパ
ヒッに服属したジャワの小国は持っている大砲をマジャパヒッに献納しなければならなか
った。マハパティのガジャ マダは海上戦での大砲の使用方法をさまざまに考案した。

ヌサンタラで行われた海上戦では17世紀ごろまで、たいていブリッジでの格闘戦という
スタイルがメインを占めた。だから敵船に接舷する前に、敵兵が集まっているブリッジ目
掛けてチェッバンで散弾を撃てばたいへん大きい効果を上げることができた。


1509年8月ごろにはじめてポルトガルの4隻の船隊がマラカ港に入り、交易許可を与
えられた。しかしマラバル海岸でポルトガルの行った征服戦争がマラカで繰り返される懸
念をインド商人たちがマラカ当局に説き、マラカ軍にポルトガル人を攻撃するよう仕向け
たために、上陸していたポルトガル人は捕虜になり、船隊はマラカの町目掛けて砲撃しな
がら逃走した。そしてマラカスルタン国はアフォンソ・ダルブケルケによるお礼参りを1
511年に受ける破目に陥ったのである。

1511年7月1日に到着した18隻のポルトガル軍船団がマラカの町に向けて砲門を開
いている姿を遠目に見ながら交渉が開始され、ポルトガル人捕虜の釈放要求にマラカ側は
すぐに応じた。通商交渉が始まって暗礁に乗り上げるとポルトガル人は船に戻り、戦闘態
勢もろくに整っていないマラカに向けて砲撃を開始した。

7月25日に軍勢が上陸して市中の制圧を始め、ダルブケルケはポルトガル王への完全服
従をマラカのスルタンに要求した。スルタンがそれを拒否すると、あとは力ずくの相談に
なり、8月10日にマラカは陥落してスルタンはビンタン島に逃げた。

ポルトガル人の書いたマラカに関する報告の中に、多数のジャワ人がマラカに住んでいた
ことが述べられている。「マラカのジャワ人居留地はひとりのカピタンに統率されている
大きいコミュニティで、かれらは自力で大砲を作っている。・・・」

1511年8月にポルトガル軍が行った終戦処理の中で、マラカの軍勢が持っていた大砲
の中に先込め式のものと元込め式のものが両方見られた。別の記録には、マラカ軍の持っ
ていた8千丁の銃火器のうちの3千丁をポルトガル軍が収納したと書かれている。2千丁
が黄銅製で残りは鉄製であり、大半がポルトガル軍の使用しているのと同じ元込め式旋回
砲だった。砲車はポルトガル人も真似できないほど精密な構造で仕上がっていた。

ダルブケルケはその工法を詳しく調べて、ドイツ人並の精密さだとコメントしたそうだ。
マラカの火縄銃を作ったのはジャワ人だとバルボサは著作の中に書いている。マラカのジ
ャワ人はそれ以外の銃火器も作っていた。[ 続く ]