「ジャワの大砲(8)」(2026年03月18日) 一方、ムラユ人歴史家はマラカの大砲についてこう書いている。ポルトガル人の来航以前 にムラユの諸国で大砲と火薬が製造されたことを証明するものは存在しない。またポルト ガルがマラカとの侵略戦争を開始する以前にマラカスルタン国が大砲を使用していたこと を証明するものも存在しない。ムラユの古文書の中にも大砲に言及しているものはない。 マラカでポルトガル軍が手に入れた大量の大砲とは手持ちの小型砲のことではないだろう か。大勢のムラユ人が使っていたのがそれなのだから。 マラカスルタンはカリクットの王からプレゼントされた美麗な大型砲を1台所有していた そうだ。それもダルブケルケの戦利品のひとつになったのではあるまいか。 ポルトガル軍がマラカで手に入れた大砲とは1/4〜1/2ポンド旋回砲のesmeril、1〜2ポ ンドの青銅鋳物旋回砲falconet、6〜10ポンドの長身砲sakerと短身砲のbombardだった という解説も見られる。マラカ軍は銃火器をジャワ人とグジャラート人から買っていた。 それも砲手ともどもに。 一方ヒカヤッハントゥアは、1509年のポルトガル船隊の最初の来航でマラカスルタン が自国の軍備の劣っていることを覚った話を物語っている。マラカは銃火器を購入するた めにRumに向けて商船隊を派遣した。 ルムとはローマを指しており、ヌサンタラにとってのローマとは東ローマ帝国のことだっ た。地名で言えばイスタンブールになるのだろう。1509年のルムはオットマントルコ の時代だが、ヌサンタラのひとびとは相変わらずその土地をルムと呼んでいた。 本当は、ヒカヤッハントゥアの物語はフィクションで、マラカスルタンはそんなことまで 気を回さなかったようだ。チェッバンと火縄銃で敵を追い払い、それで満足したのかもし れない。 実際にオットマントルコと外交関係を結んで軍事支援を引き出し、派遣されてきた完全装 備のトルコ軍と共にポルトガルと戦争したのは16世紀のアチェだった。それ以来、アチ ェ軍はトルコ製の大型砲を使うようになった。 ポルトガルのマラカ征服に脅威を感じたジャワとスマトラのイスラム諸王国がドゥマッの 皇太子パティ ウヌスの呼びかけで同盟軍を編成し、マラカを奪還してポルトガルの勢力 を南洋から一掃することを試みた。1512年に連合軍は百隻を超える大軍船団に1万人 あまりの軍勢を擁してマラカに向かい、マラカのポルトガル要塞をあわや陥落寸前まで追 い込んだものの、ポルトガル軍船隊の急襲を受けてイスラム軍船団は壊滅した。 イスラム軍船団は主兵器のチェッバンを使って陸上のポルトガル防衛軍に損害を与え、陸 戦の展開を有利に導いたにもかかわらず、ポルトガル軍船隊との間で展開された海上での 砲撃戦は大人と子供の戦いのようなていたらくに終わってしまった。ポルトガル船の大砲 の威力はチェッバンをはるかに上回っていたのだ。 マカサルのゴワ王国征服戦でVOCはスルタンの宮殿でありまた最強の要塞だったソンバ オプ要塞を1669年に攻撃して陥落させた。その勝戦でVOCはゴワ王国の大砲を大小 併せて33丁、鉄製鋳物砲11丁、旋回砲145丁、マガジン83本、マスケット銃60 丁、他の火縄銃23丁、弾丸8,483個を手に入れた。 マカサルの船もかれらがba'diliと呼ぶ元込め式旋回砲を装備していた。1803年にオ ーストラリアの北海岸にナマコ収穫のためにやってきたマカサル船隊にノーザンテリトリ ーの監視員が臨検を行い、船に装備されていた兵器を実検分している。マカサル人は収穫 の間、陸上に仮小屋を建てて生活した。しばしば友好的なアボリジンと共同生活を行い、 異種族間結婚が発生した話も語られている。 しかし中には敵対的なアボリジン集団もいて、衝突も発生した。1930年ごろの監視員 の報告には、マカサル人は居住地を防衛するために青銅製で口径2インチの旋回砲を船か ら外し、陸上に移して設置していると記されている。 20世紀に入ったころのフィリピンで米軍がモロ族と行った戦闘では、モロ族が元込め式 旋回砲を使っていたことが報告されている。[ 続く ]