「ジャワの大砲(9)」(2026年03月19日) 戦争の行方が大砲によって決まる時代が訪れた。東ローマ帝国別名ビザンチウム王国の都 コンスタンティノープルをオットマン帝国が1453年に陥落させることができたのは、 マジャール人鋳造師の作った砲身8メートル、重量16.8トン、口径750ミリという 大口径砲のおかげだったと言われている。 その鋳造師オルバンは最初ビザンチウム王国にそのアイデアを売り込んだにもかかわらず、 皇帝コンスタンティノス9世はそれを作る経費もオルバンへの報酬もまかなう能力がない と表明したために契約が不成立に終わった。するとオルバンはコンスタンティノープル侵 攻を計画しているオットマントルコのメフメッ2世に話しを持ちかけたのである。 商談が成立してオルバンはアドリアノープルで超巨大砲を製作した。3カ月後に完成した その大砲は60頭の牛に引かれてコンスタンティノープルを包囲しているトルコ軍に引き 渡され、コンスタンティノープル城市を取り巻いている城壁を粉砕した。オルバンはトル コ軍のために普通の大砲もたくさん作った。 オルバンの超巨大砲のアイデアはハンガリー軍が既に用いていたもので、オルバンは自分 が考えた改良版を作ろうとしたのかもしれない。オルバンとかれの助手たちはオットマン 軍のコンスタンティノープル攻囲戦の中で大砲が自爆したために全滅したのではないかと 考えられている。 ヨーロッパ勢のアジアへの進攻が短期間のうちに成功していったのは、武器の性能に負う ところが大きかった。中でも大砲が突出した働きをした。VOCはオランダの優れた鋳造 技術のおかげで高性能の大砲を多数そろえ、アジアにおける覇権争いでトップに立つこと が可能になった。先行したポルトガルを蹴落とすに当たってオランダの大砲は多大な功績 をもたらした。 ヨーロッパ勢がアジアにやってくるようになると、アジア人はヨーロッパ製大砲を奪い合 いで欲しがった。1629年にスルタン アグンの第二次バタヴィア進攻が行われた際、 マタラム軍はSegorowonoおよびSyuhbrastoと名付けたヨーロッパ製大砲2門を使った。そ れらはその時代最高の性能を誇るオランダ製の大砲であり、VOCがジュパラに要塞を築 くことを承認させるためにスルタンアグンに進呈したものだった。 スルタン アグンが王都プレレッから送り出したマタラム軍はその大砲を引いて北上した。 海岸線沿いにチルボンに達してから米どころのカラワンを経由してバタヴィア東南に至り、 メステルコルネりスの北側に本営を置いた。そのためにMatramanという地名がその土地に 与えられたという話になっている。 この第二次進攻でマタラム軍の大砲は大活躍し、小口径砲と一緒になってバタヴィア城市 内に砲弾を雨あられと降らせた。カリブサル沿いのオランダ教会がその砲撃によって大破 している。またバタヴィア城市内を囲む城壁の南角(現在のマンディリ銀行博物館敷地の 南西角)に設けられていたホランディア防塁も陥落した。ところがマタラム軍はそこから 城市内に攻め込もうとせず、別の防塁を突き破ろうとしたためにVOC軍に立ち直る機会 を与え、バタヴィア城市内制圧に失敗したのである。 マタラム軍が行ったバタヴィアへの二回の進攻でマタラム軍は二回ともVOCに敗れたと いう評価がインドネシア人の間では常識になっている。しかしこの第二次進攻に関しては 戦勢を見る限り、マタラム軍は戦勝の一歩手前まで進んだにもかかわらず、突然すべてを 投げ出した戦場から去って行ったという印象をわたしは抱いている。それを戦争に敗れた と表現できないわけでは決してないものの、その語感が発散させている印象と実情はまっ たく裏腹であるような気がしてならない。 マタラムのスルタン アグンが所有した西洋型大砲が9門、スラカルタ王宮に保管されて いる。ジャワ人は高雅な物品に人名を付けて霊化する慣習を持っていたので、9門の大砲 には名前が付けられた。その最上位のステータスを与えられているのがNyai Setomiと名 付けられた大砲で、普段は清浄な場所にひっそりと置かれているが、ジャワイスラム大祭 の日だけ外に出されて清めとメンテナンスが行われている。 ニャイ セトミのカップルがKiai Setomoだ。キヤイ ストモはスラカルタ王宮におらず、 ジャカルタにいる。ジャカルタではSi Jagurという名前でジャカルタ歴史博物館の表広場 にしゃがみこんでいるという話がソロでは語られているのだが、別の地方でシ ジャグル の身の上話は別のストーリーが語られている。[ 続く ]