「ジャワの大砲(17)」(2026年03月27日) 勢いに乗ったポルトガル軍船隊はますます砲撃を活発化させながら第二軍団に接近してく る。逃走し始めたジャワの軍船団に照準を当ててポルトガルの砲撃は執拗に続けられた。 船体構造を破壊されて沈む船、火薬庫に砲弾が当たって大爆発を起こす船。そんな中でウ ヌスの乗っている旗艦がポルトガル人の目を引いた。敵の最大の巨船だ。やつを海のもく ずにしろ。 ウヌスの周囲に落ちる砲弾が増加した。マストの一本が打ち砕かれて倒れ、下にいた兵士 をシート状にし、帆布が海に垂れて船の進行を遅くした。船尾も舳先も破壊され甲板が穴 だらけになった。甲板に落ちた敵弾がさく裂して金属片が飛び散った。その一片がチェッ バンの砲口の中に吸い込まれた。火薬を詰めたばかりのそのチェッバンは自爆した。もっ と大きい金属片が周囲一面に撒き散らされ、砲手の身体が飛散した。ウヌスは全身血まみ れで甲板の上に横たわっていた。 大軍勢でジュパラから進発したドゥマッ海軍はわずか5隻が帰還しただけだった。ウヌス の乗った旗艦もその中の一隻だ。生きて帰国することができたウヌスは、その旗艦を浜辺 に座礁させてマラカ侵攻のモニュメントにした。敗戦の屈辱を忘れたくない人間は決して 少なくない。だがウヌスが、そしてジャワがあるいはヌサンタラが西洋人に勝つためには 技術力の向上が不可欠であることをかれが一番よく知っていたはずだ。マラカ侵攻のモニ ュメントが世の中に示している意味はきっとそれだろう。 百隻を超えるジャワとスマトラの大軍船団を完膚なきまで叩きのめしたポルトガル船隊の 指揮官フェルノウン・ピレス・ドゥ アンドラーデがアフォンソ・ダルブケルケに送った 1513年2月22日付けの手紙にはこう書かれていた。 パティウヌスのジャンクはこの地方で目にした中で最大のものだった。船には1千人の兵 士が乗っていた。船とは思えないようなその船はたいへん珍しい見物だった。われわれは その船を砲撃したが、喫水線の下を破ることができなかった。船に積んでいたエスフェラ を使って攻撃してみたものの、それも貫通しなかった。船は1クルザードを超える厚みの 金属板を三層使って保護されており、こんな船をかつて見た者はだれもいない。その船は 三年がかりで建造されたものだ。閣下はパティ ウヌスの名前をマラカに関連して耳にさ れたことがおありでしょう。マラカの王になろうとして大船隊を編成したのがパティ ウ ヌスです。 パティウヌスが1521年に没すると、弟のトレンゴノがドゥマッの王位を継承した。ウ ヌスが海というパースペクティブで世界を見ていたのに反してトレンゴノの視線は陸にと らわれていた。ウヌスは他の諸王国と対等の立場で同盟関係を結ぶことを原理に据えてい たのに対してトレンゴノの原理は支配関係だったという説がある。その説には、マラカの ポルトガル人はウヌスにとって不倶戴天の敵だったが、トレンゴノにとってポルトガル人 は自分がジャワ島の覇権を握るために利用するべき勢力だったと述べられている。 トレンゴノがドゥマッ第三代スルタンの座に着いてから、ドゥマッ軍の外征が盛んになっ た。ジャワ島をイスラム世界に変え、その中で覇権を打ちたてるのがトレンゴノのドゥマ ッなのである。ジャワ島最強と謳われたドゥマッの騎馬軍団がトレンゴノにひれ伏さない 諸国を踏みにじり、敵対する者を皆殺しにした。 ウヌスが作ったドゥマッ海軍はトレンゴノにとって海上輸送機関でしかなかったかもしれ ない。海軍はバンテンへ、パスルアンへとドゥマッの軍勢を運んだ。どこの戦場へ行こう が海戦は起こらなかった。というのも、マジャパヒッはトゥバンとグルシッを王国海軍本 拠地にして他のアディパティ領に海軍を持たせなかったから、ジャワ島でドゥマッ海軍と 海戦を行えるのはそのふたつしかなかったのだ。 ただし、たとえ海戦の相手がいなかったとしても、海洋型原理を採る統治者であれば海軍 の主任務は別のところに置いて海上輸送機関にはしなかったはずだ。[ 続く ]