「ジャワの大砲(終)」(2026年03月28日)

マジャパヒッと戦争して勝利した父王ラデン パタはマジャパヒッの支配下から脱してド
ゥマッを独立させることだけにとどめ、対等の独立国としてマジャパヒッと併存する方針
を採った。マジャパヒッの覇権を奪って天下に号令しようとはしなかったのだ。ところが
トレンゴノは父王がしなったことを自分がしようとした。かれはマジャパヒッをドゥマッ
の支配下に置こうとした。服従しなければ滅ぼすまでのことだ。

1527年にマジャパヒッ軍を破ったドゥマッは、1529年にマディウン、1530年
ブロラ、1531年スラバヤ、1535年パスルアンと連戦連勝を続けて支配権を拡大し
て行った。1541年から翌年にかけてラモガン・ブリタル・ジョンバンを征服し、15
43年にはマジャパヒッの遺臣らが拠っていたプナングガン山を陥落させ、1545年に
はマランのスングル王国を倒した。

ドゥマッ軍はイスラム軍であり、ドゥマッという国のスタート時点から政治の中枢にはジ
ャワ島にできたイスラム宗教界指導層が深く絡みこんでいた。だから王国がイスラム国家
になり、国民がイスラム社会を形成し、国家統治はイスラム式行政で行われ、軍隊がイス
ラム軍になるのは当然のことだった。王のブレーンたちが政治と軍事によるジャワ島イス
ラム化を目標に掲げていたのは疑う余地があるまい。

そのイスラム化ということがらの中に覇権、つまりは支配権力という要素が混じりこんで
いたことも言を俟たないだろう。それはドゥマッのイスラム者と服属国のイスラム者とい
う上下関係を帰結としてもたらすことになる。戦争に狂ったトレンゴノのドゥマッという
国が行ったのは果たしてジャワ島のイスラム化という聖戦だけだったのだろうか?


1546年、ジャワ島最後のヒンドゥブッダ王国ブランバガンをジャワ島東端にまで追い
込んだドゥマッ軍は北岸最果ての港町パナルカンを包囲した。チルボンの支配者スナン 
グヌンジャティがチルボン・バンテン・ジャヤカルタの軍勢7千人をファタヒラに委ね、
トレンゴノの援軍として差し向けた。

ポルトガル人冒険家で「遍歴記」を書いたメンデス・ピントも40人の仲間と共にパナル
カンに向かうバンテン軍の中にいたそうだ。キリスト教徒がイスラム軍に加わってヒンド
ゥブッダ王国を滅ぼす聖戦に加担したという話を容易に信じられる現代人は少ないかもし
れない。だったらイスラム化したバンテンにポルトガル人商人がやってきて住み着き、そ
こで経済活動を行っていたことも想像を絶する話になりそうだ。

ドゥマッ軍自身も、服属させた諸王国諸地方から多数の軍勢を集めてパナルカン攻囲戦に
従軍させている。スラバヤの領主も軍勢を率いてドゥマッ軍の中にいた。そのとき、スラ
バヤ領主は10歳の自分の息子を戦場に連れてきていた。支配者になった家系の子供たち
は実戦の中でさまざまな見聞と体験を積み重ね、成人してから親の後継者になっていくの
である。連れて来られた子供たちの中で総大将トレンゴノの身辺警護に侍ったり、あるい
は身の回りを世話する小間使いの仕事を与えられる者もいた。

ドゥマッ軍が包囲して既に3カ月が経過したというのに、パナルカンの陥落する気配はさ
らさら見えない。ある日、トレンゴノは作戦会議を開いた。服属した諸王国軍の統率者た
ちが顔を並べ、トレンゴノの幕僚たちは一歩退いて下位に居並ぶ。トレンゴノの小間使い
の仕事を与えられていたスラバヤ領主の10歳の息子も会議の場にいて、トレンゴノの後
ろに侍っていた。

その子は会議の進行に強い興味を抱き、話されている内容に聞き入った。トレンゴノがそ
の子にシリピナンを持ってくるように言いつけたとき、その子の耳にトレンゴノの声が入
らなかった。トレンゴノが言いつけを繰り返したにもかかわらず、その子には聞こえない。
その子の近くにいた幕僚が見かねてその子に注意した。やっと気付いたその子は盆に載せ
たシリピナンを持ってきてトレンゴノに差し出したので、トレンゴノはその子を軽く殴っ
た。自分の務めを真剣に果たさない者への戒めだ。

ところがそんな扱いを受けたことのないその子にとって、トレンゴノの振舞いはたいへん
な恥辱になった。恥辱と怒りがその子を野獣に変えた。その子は腰の短刀を抜いてトレン
ゴノの胸を深々と突き刺したのだ。稀代の英傑の生涯がそこで幕を閉じた。[ 完 ]