「カリンガ王国(2)」(2026年04月02日)

カリンゴ王国は王都をクリンKeling(英語綴りではKling)と称したことから、しばしば
クリン王国と呼ばれることも起こった。中国皇帝への朝貢使節はひょっとしたら自国の名
称としてクリンを名乗ったかもしれない。

この王国はヒンドゥ教と仏教を奉じ、サンスクリット語・カウィ語・古ジャワ語が使われ
ていた。西暦720年ごろに中国語で書かれたトリピタカの書には、5世紀初期にカシミ
ールの仏僧グナワルマンがジャワの王国に招かれて396〜424年の間仏教を教えたこ
とが記されている。

671年に室利佛逝を訪れて半年間滞在した義浄はジャワに関する伝聞を自著に書いた。
中国人仏僧の會寧がカリン国を訪れ、664〜667の三年間滞在してジャワ人仏僧ジュ
ニャナバドラに教えを受けつつ仏典を翻訳した。カリン国には小乗仏教の教育センターが
あった、云々。

ジャワでは太古の昔からヒンドゥ教と仏教が同居し共存していたことが従来から定説にな
っている。宗教が違っているというだけのことで異教徒間の社会的な対立や抗争に発展す
るようにはならなかった。形は違えども本質は同一(ビンネカトゥンガルイカ)なのであ
る。

現在のジュパラにクリンという地名があること、またプカロガンは古代の海港があった土
地であり、長い歴史の中でクリンという名称がPe-keling-anという語法に変わり、音変化
が起こってPe-kalong-anになったと推察している仮説が出されていることから、カリンゴ
王国の王都はそのどちらかにあったのではないかと考えられている。

その王国領は東がムリア半島、西はブルブスを両端にする海岸沿いの細長いエリアだった
と推測されており、南部のディエン高原を聖域にしていたと見られている。支配領域が最
大に広がった時期には、ムルバブ山ムラピ山の麓一帯までをその支配下に置いたようだ。
その勢力図を見るかぎりでは、王都クリンがジュパラだったという説は、王都が東に寄り
すぎていることやムリア半島がその当時は陸地から離れた島だったという見解もあって、
支持されにくい印象を受ける。


面白いことに、クリンという言葉はタミール人など南インドの諸種族を指すインド語であ
り、またカリンガという地名もインド亜大陸東岸部のガンジス川とゴダヴァリ川の間の地
域を指す古代の地名だった。現在のオリッサ地方である。

インドからの植民によって作られた王国であるかのような印象を強く受けるそれらの名称
は、拙作「ジャワ人の起源」(2023年05月04〜22日)
https://indojoho.ciao.jp/2023/0504_1.htm
に物語られている話を彷彿とさせるに足るものがある。とはいえ、王統がインド系プラナ
カンだったためにその命名が行われたのか、それとも純血ジャワ人王国が偉大なるインド
の地に憧れてマハバラタから名前を拝借したのか、その辺りのことは判然としない。

この王国の末期に登場したシマ女王の名前がもっとも有名だ。唐書には、この女王の時代
にたいへん厳しい仕置きが実施されて、盗みは腕を切り落とす刑が行われたので、盗みが
絶えたという話が記されている。その話によれば、盗みのない国という噂を聞いてアラブ
の富裕者がためしに都大路の十字路に黄金の入った巾着を置いてみた。ところがその巾着
は置かれた場所に何年間もずっとそのままの状態になっていて、だれひとり手を付けなか
ったそうだ。

あるとき王子がそこを通りかかって足が巾着に触れた。そのできごとが女王に報告された
ために、怒った女王は王子に死刑の判決を下した。しかし重臣一同が諫めたため、巾着に
触れた脚を斬り落とす刑に変更された。ところが重臣一同がまた諫めたので、足の親指が
斬り落とされたという顛末だったそうだ。未来の国王候補者が片脚では、家臣を率いて戦
場に出ることもできない国王になるかもしれないではないか。家臣たちが国の滅亡を恐れ
るのは当たり前のことだろうと思われる。[ 続く ]