「カリンガ王国(3)」(2026年04月03日) シマ女王は611年にシワ=ヒンドゥ教の高僧の娘としてクリンの町で生まれた。正式の 名前をShima putri Hyang Syailendra putra Santanuと言う。シマはカリンゴ王国皇太子 の正室となり、皇太子が即位してカルティケヤシンガ王になったとき、王妃になった。 カルティケヤシンガはキロトシンガ王の息子だ。キロトシンガはスマトラのムラユ系王国 スリブジャの国王の妹を王妃に迎えた。ところが、スリブジャ王国は683年にスリウィ ジャヤ王国に滅ぼされたのである。姑の兄の国を滅ぼしたスリウィジャヤをシマが憎んだ のも当然のことだったにちがいあるまい。 カルティケヤシンガ王とシマの間にはデウィ パルワティ王女とナラヤナ(イスワラ)王 子が生まれた。カルティケヤシンガ王が674年に没すると、シマは自ら王位を継いで女 王に即位した。 シマ女王は695年に没する前にカリンゴの王国領を北の海岸部と南の内陸部に分割し、 ブミマタラムと呼ばれた北を娘のパルワティが統治し、ブミサンバラと呼ばれた南を息子 のナラヤナに統治させた。ということは、上の王統譜のパルワティ女王とサナハ女王の時 代にカリンゴ王国は、たとえ敵対関係になかったとしても分裂していたことになりそうだ。 その場合に、カリンゴ王国としての代表者は北の統治者が務めていたということになるの だろう。 パルワティ王女はスンダのGaluh王国の皇太子ジャランタラの妻になり、皇太子はプラブ スラガナ王として702〜709年にガルの王位に就いた。パルワティはスラガナの娘、 サナハを産んだ。 サナハはサンナ王の妻になり、サンジャヤを産んだ。このサンジャヤが後にサンジャヤ王 ラカイマタラムとなってムダン王国を興すのである。サンジャヤはスンダ王国のタルスバ ワ大王の息子ラキヤン スンダスンバワの娘デウィ スカル・カンチャナを妻にした。ムダ ン王国の開祖サンジャヤ王は732−746年の間王位に就いている。ムダン王国がカリ ンゴの衣鉢を継ぐ王国であったことが、その系図の中に語られているように思われる。 ちなみにこの説では、タルマナガラ王国最期の大王リンガワルマンに娘がふたりあって、 姉のデウィ マナシはタルスバワ大王の妻になってタルマナガラとガルの支配権をそのふ たりが握り、一方妹のデウィ ソバカンチャナはスリ ジャヤナサの妻になり、ジャヤナサ が671年にスリウィジャヤを建国したと語られている。 西暦6世紀ごろのスマトラ島では北部に巴利Pali王国、東部はパレンバンにSribuja王国 が栄えていた。ジャンビのスリウィジャヤ王国は小国だったが、676年にパリとマハシ ン(シンガポール島)を征服して支配下に置き、更に683年にはスリブジャが被征服国 のリストに連なった。 このスリブジャ王国という名前に面食らった読者はいらっしゃらないだろうか?これまで スリウィジャヤの中国名称と信じられてきた室利佛逝という言葉の中古音は Syit lijH bjut dzyejH になっていて、シリビュジェと耳に聞こえるのである。 ただし室利佛逝の朝貢遣使は695年に始まって702年、716年、724年、728 年、742年と繰り返された。スリブジャ王国がパレンバンにあり、スリウィジャヤは6 71年ジャンビに建国されてから683年にパレンバンの王国を滅ぼしたという内容と、 パレンバンのクドゥカンブキッで発見された碑文にスリウィジャヤ王国が西暦683年に ダプンタ・ヒヤンによって建国されたと書かれている内容を突き合わせるなら、ジャンビ のスリウィジャヤ本家がダプンタ・ヒヤンの指揮する軍勢をパレンバンに派遣してスリブ ジャの王都を陥落させ、その軍勢がパレンバンにスリウィジャヤ王国の分家を作ったよう に解釈できなくもない。[ 続く ]