「カリンガ王国(4)」(2026年04月04日)

一方、義浄は671年に室利佛逝を訪れ、半年後にムラユの国に移動してKedah行きの船
に乗り、クダッからインドに向かって船出した。685年にかれがインドを去ってムラユ
の国まで戻ったとき、その地は室利佛逝の領土になっていた。

唐王朝に初めて末羅瑜の朝貢使節が来航したのは645年だった。ところが695年から
室利佛逝の使節がやってくるようになったとき、末羅瑜からの使節来航はぱったり途絶え
てしまったという記事がある。またジャンビの王国が?畢の名前で初めて朝貢使節を中国
に派遣したのは853年だそうだ。二度目の来航は871年だった。

宋の時代に三佛齊と書かれるスマトラの王国が朝貢に来た。三佛齊の中古音はサンビュジ
ェであり、室利佛逝とよく似ている。この違いは宋の文官が室利佛逝という文字表記をや
めて三佛齊をその代わりに使ったということなのだろうか?本当に、唐代に室利佛逝と書
かれる国名を名乗ったら宋代に三佛齊と書かれたというだけの話なのかどうか?三佛齊の
朝貢使節は宋代の960年から三年間、そして間をあけて981年にも来朝した。

それらの情報からジャンビの王国史とパレンバンの王国史、そしてその二地方の王国がど
んな関係にあったのか、更に室利佛逝と三佛齊がどの王国を示しているのか、といった謎
がはたして影を結ぶだろうか?どうもわたしの頭では皆目無理なようだ。


スリブジャの王家がカリンゴ王家と交わっていたために、スリウィジャヤ王国はジャワの
王国との関係改善に努め、リンガワルマン大王の婿であるという関係に依拠してスンダ王
国との友好関係を築いた。

さらにカリンゴ王国に親善を求めたものの、カリンゴ側はそれを拒絶した。カリンゴ王国
はスリウィジャヤ王国と一戦交えようとして準備を進めたところ、スンダ王国のタルスバ
ワ大王が仲裁に入って戦争は回避された。スリウィジャヤ側は、カリンゴがスンダと姻戚
関係にあることを考慮してジャヤナサ王が戦争を控えたため、692年にジャヤナサが没
するまで両国の間で戦争は起こらなかった。

しかし別の説では、シマ女王のカリンゴ王国は軍隊らしい軍隊を持っていなかったとされ
ていて、国家の発展は王の善政と経済活動が中心を成していただけであり、スリウィジャ
ヤの軍勢がやってくれば即座に降伏せざるを得なかったという話を書いているイ_ア語記
事もある。

ジャヤナサが没すると、ダルマプトラがスリウィジャヤの王位を継いで704年まで在位
した。ヌサンタラの広範な領域を支配して域内の頂点に立とうとしていたスリウィジャヤ
がジャワ島の諸勢力を放置しておくわけがなかったと考えられるものの、その時期にスリ
ウィジャヤとジャワの王国間の戦争は史実として存在していないという説が優勢であり、
結局のところ、ジャワ島の有力な諸王国も昇天の勢いに乗ったスリウィジャヤの下風に立
たざるを得なくなったということなのだろう。カリンゴ王国はパルワティ女王〜サナハ女
王の時期に既にガル王国の統治の中に含まれるようになっていたかもしれない。カリンゴ
王国が消滅したのは742〜755年の期間のどこかだとされている。[ 続く ]