「カリンガ王国(5)」(2026年04月05日)

イ_ア語の別の記事を読むと、カリンゴ王国を滅ぼしたのは一族の人間サンジャヤだった
というストーリーになっている。

ガル王国皇太子ラッヤン マンディミニャッ別名ジャランタラ(後のスラガナ王)を夫に
したパルワティはカリンゴ王国の北半分を相続して695年から716年まで統治した。
パルワティとジャランタラの間に王女デウィ サナハと王子ブラタスナワ(愛称サンナ)
が生まれ、サナハの産んだサンジャヤがガルの皇太子とされた。

一方、ナラヤナは、Iswarakesawa Lingga Jagatnata Buwanatalaというアビセカ称号で6
95年から742年までの間、南カリンゴ王国の国王になった。アビセカというのは英語
のabhisheka、日本語と中国語は灌頂という訳語を当てている。ナラヤナは息子デワシン
ガを得て、その親子の間で南カリンゴの王位が継承されたという話もある。

南北カリンゴの統一を望んだサンジャヤはスンダ=ガルの王位継承権をラクリヤン パナラ
バン別名タンプランに譲って北カリンゴの王位に就き、南カリンゴのデワシンガを攻めて
サンジャヤが勝利した。ここからいくつかの説が分離する。

1.サンジャヤは北カリンゴを息子のラカイパナンカランに統治させ、自分は南カリンゴ
の支配者となってムダンにマタラム王国を樹立した。言うまでもなく北カリンゴはマタラ
ム王国の一地方領になった。
2.サンジャヤは統一カリンゴ王国を息子のラカイパナンカランに統治させ、自分はムダ
ンにマタラム王国を樹立して大王になった。統一されたカリンゴ王国はムダンのマタラム
王国に呑み込まれて王国の歴史を閉じた。
3.サンジャヤはガル王国を去ってから南カリンゴを征服し、そのあと北カリンゴをも征
服した。ということは、北カリンゴの王位に就いてから南カリンゴを征服したのでなく、
そのとき北カリンゴは祖母の系列の誰かが国王になっていたということになるのだろう。
この説も上の1.2.のバリエーション、つまり息子に与えたのは北カリンゴ王国なのか、
それとも統一カリンゴ王国なのか、というポイントに分かれるように思われる。

たとえそうではあっても、いずれにせよカリンゴは北だけであろうが南北両方であろうが、
ムダンのマタラム王国に包含されてその歴史を閉じたのだから、たいした違いはないと言
えるかもしれない。

サンジャヤがムダン王国の開祖であるという記録はDyah Balitungが907年に建立した
マンティヤシ碑文に基づいている。ムダンの国王になったサンジャヤはRakai Mataram 
Sang Ratu Sanjayaという名前を使った。Sang Ratuという言葉はMaharajaよりも上位にあ
ることを示しているのだそうだ。


地名としてのマタラムは今のヨグヤカルタ特別州と中部ジャワ州にまたがるケウKewu平原
(プランバナン平原とも呼ばれている)一帯を指して使われてきたものだ。サンジャヤが
自らをマタラムの支配者だと言うのであれば、マタラムという地名は南カリンゴを指して
いたと考えざるをえない。

そうであるなら、シマ女王が分割した北の海岸部がブミマタラムと呼ばれ、南の内陸部が
ブミサンバラと呼ばれたという記事の内容は逆転しなければならないだろう。

ところがブミサンバラと名付けられたホテルがマグラン県のボロブドゥル地区に存在して
いるのだ。Bhumi Sambhara Budharaという名称は菩薩の十の徳の段階を意味するサンスク
リット語であり、8世紀末から9世紀前半の間に建設されたチャンディボロブドウルのオ
リジナル名称がそれだったと考えられている、という解説がそのホテルの紹介記事に記さ
れている。

マタラムという言葉自体がサンスクリット語で母を意味するそうで、このどちらがどっち
という問題はシマ女王の時代に南の内陸部を示すマタラムという地名が定着していたのか
どうかがひとつのカギになりそうだ。[ 続く ]