「スラバヤの戦闘(14)」(2016年11月29日)

10月20日付けムルデカ紙は、「日本軍の粛清行動は10月19日夕刻まで続けられ、
およそ2千人のスマラン市民がそのために生命を奪われた。その闘争の中で5百人前後の
日本人も同じ運命をたどった。」と報じた。AFNEI諜報部の出した報告によれば、日
本軍降伏後の半年間にインドネシアで死亡した日本軍兵員は627人で、そのうちの18
7人がスマラン事件におけるもの、そしてスマラン事件の余波で86人の海軍兵員が被害
者になっている。その86人は既に武装解除を終え、スマランからジャカルタの抑留所に
鉄道で向かっていたひとびとで、そこで日本へ送還されるために復員船の順番を待つこと
になっていた。

列車がチカンペッに近いプガデンバルに着いたとき、どこのだれとも知れない多数の群衆
が86人全員を列車からひきずりおろし、暴行虐待を加えたあげく、一人残らず殺害した。
城戸部隊の粛清行動に対する報復行為だったとされている。


その新聞がジャカルタに届くと、イギリスインド軍第49旅団司令官べセル准将が一軍を
伴ってスマランに急行し、破壊され静寂に包まれた街に入った。

准将は中部ジャワ州知事に会い、インドネシア共和国はイギリス軍の必要物資を供給し、
イギリス軍は治安の維持に努める、という合意を交わした。そこにイギリス軍はインドネ
シア共和国の主権を尊重するという約束を付け加えて。

すぐにグルカ兵が街中の警備に就いている城戸部隊兵員を捕らえて、ジャティガレの日本
軍営舎に送り込んだ。

スマラン市内の警備体制を固めてから、イギリス軍は内陸部のアンバラワとマグランに向
けて進軍を開始した。婦女子をメインにおよそ1万人が収容されているそれらの抑留所は
10月26日に解放された。


スマラン事件は日本軍指揮官の持っていたひとつの精神性をあからさまに描き出したが、
それとはまったく正反対の姿勢をバニュマス守備隊指揮官は示している。その指揮官はペ
タバニュマス大団のスディルマン大団長の要請を容れて、兵器庫をインドネシア人ペタ兵
士に開放したのだ。

AFNEI軍が進駐して来るまでの日本軍対インドネシア人という構図が、AFNEI軍
の進駐に伴ってジャカルタをはじめ各地で起こった混乱の地獄図によって大きな変化を起
こした結果、大日本帝国軍人の中に心情を揺さぶられたひとびとが少なくなかったことを
示す一例がそれだったのかもしれない。


スカルノは1945年10月5日に共和国公式軍の編成を命じた。名称は人民保安軍であ
り、人民の保安を責務とする軍隊というのがスカルノの意図だった。その人民保安軍にさ
まざまな前歴を持つひとびとが集まって来た。あまりにも日本の色合いを濃くにじませた
ペタは共和国内部からの反感にまとわりつかれるがために解散させざるをえない。だから
新たな共和国軍を作ってペタをその中に吸収していく解決案がスカルノとハッタのこの問
題に対する政治的配慮だったにちがいない。

その時期、正規の軍隊教育を受けた者は日本軍が作ったペタと蘭領東インド植民地軍の軍
人になっていたインドネシア人がメインを占めた。人数の上からは圧倒的にペタ経験者が
多く、人民保安軍上層部が集まって総司令官の選抜を投票で行った結果、ペタバニュマス
大団のスディルマン大団長が選ばれた。昔、すべての金種の紙幣に顔を出していたスディ
ルマン将軍がかれだ。[ 続く ]

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